人間の国

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 さて、残飯処理の後は皿洗いである。僕はこれが一番嫌いだった。腰を屈め、与えられた小さなスポンジで大きな皿を洗ってゆくのだから。 肩や腰は痛み、手は酷く荒れてゆくのだ。薄皮が剥け、冬は血が滲むこともあった。それでも手を止めるわけにはいかない。時間内に終わらせなければ上司たちから酷く野次が飛んでくる。 泡が傷に染み、じわじわと痛みが増してゆく。絆創膏は切らしてしまった。我慢するしかないのだ。我慢すれば終わるのだ。  そうして何時間も肩や腰の痛みに耐えていれば、甲高い終業のベルが鳴り響く。 それは地獄の終わりで告げるものあると同時に、明日も変わらぬ地獄が訪れるという警告のベルでもあった。 僕はベルを聞き終わったと同時に仕事場を去り、長く続く廊下の先にある控え室へと戻った。控え室の扉を開ければ、中から上司が飛び出してきた。彼は一番性格が良いが、どこか面倒くさがりな人間であった。 「すまないね、人手不足なんだ。もう少ししたらきっと頼れる新人を連れてくるからね。」  一年前と全く変わらぬ台詞を吐き捨て、彼はそそくさと退勤していった。 僕は彼に一ミリも期待しないままロッカーへと向かい、無造作に放り投げてあった服を掴んだ。汗の滲む作業着を脱いでしまえば、体は一気に安寧に包まれる。普段着に着替えれば尚更、仕事が終わったことを実感する。 ロッカーの鍵を閉めた僕は鞄を肩にかけ、忌々しい控え室を後にした。  痛む体を動かし帰路につく。屋外へ出れば何本もの街灯が僕を見下ろしていた。 人口が増えすぎた世界。どこへ行ってもビルの明かりが絶えなかった。首都では騒がしい若者たちのパレードが毎夜開催され、時代に追いつけない老人たちは辛うじて薄暗い路地裏に身を潜めていた。 僕は若者の部類に入るのだろうが、そういった祭りはどうも好まない。四方八方から押し寄せる人間にもみくちゃにされ、終いにはゴミだらけの道端に放り出されるからだ。それに幸い、僕の住む町は比較的静かな方だ。 しかし町を歩く者たちは多い。仕事帰りのくたびれたサラリーマンに、酒瓶片手に歩く中年の男。手を繋ぐアベック、どうも訳ありな連中もいる。 僕はただひたすら家への道を歩くだけだ。いくら話しかけられても無視していればどうってことない。朝のようないざこざは御免だ。 「お兄さん、アタシと今夜どうですか?」  着飾った女が一人、僕の行く手を阻んだ。面倒は御免だと思ったそばからこれである。 僕は彼女を軽くあしらった。しかし彼女は諦めの悪い女だった。僕の服の袖を掴み無理やり引っ張るものだから、僕は数歩よろけ塀へ背中をぶつけた。 「お兄さん暇なんでしょ?お金があるなら暇つぶしに付き合ってあげますよ?」  行き交う者たちは僕らに構うことなく歩き続けている。 トラブルに巻き込まれることを恐れる人間たちは、淡々と目的地へと歩いていくだけだった。 少々苛立った。自分から引き留めておいて何が暇だ。僕は暇ではない。したいことなどこれっぽっちもなかったが、一刻も早く自宅へ帰りたかったのだ。 僕はなるべく低く小さな声で目の前の女に言い放った。 「…僕はあなたに興味がありません。」
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