人間の国

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 さて、その後どうなったかは言うまでもないだろう。 控え室へと向かう廊下で上司とばったり鉢合わせ、僕はかなりどやされた。 「バイトの分際で遅刻とは良い度胸だ」と、彼は僕の心臓部分に指を差しながらそう叫んだ。 僕はただ俯き、小さな声で「申し訳ございません」と頭を下げた。  控え室に入れば、そこには夜勤の仕事を終えた同僚がいた。 僕を見るなり、まるで同情するかのような視線を向けてきた。その顔はまるでピカソの自画像のようだった。 「お前も大変だな。やっぱ辞職した方が良いんじゃないか?」  捨て台詞のようにそう吐き捨てた後、彼はミントの強烈な匂いを撒き散らしながら控え室を出て行った。 虫唾が走る。僕はロッカーの鍵を鞄の中から強引に引っ張り出した。  何故こうも不幸なのだろう。僕はなんのためにこの仕事をし、なんのために生きてゆくのだろう。  死んでしまいたい。人生でそう願うのはこれで何度目だろうか。 しかし何度願っても実行せずに生きているのだから、僕はいい加減で中途半端な奴なんだろう。 ロッカーにくっつけられたマグネットたちが、まるで僕を睨む眼球のように見えてならない。彼らのような意識を持たない物質になれたら幸せなのだろうか。 遅刻したというのに、僕はまだロッカーの扉を開けることもできない。一刻一刻と時間が過ぎていけば、その分上司たちの怒りは増してゆくのだろう。きっと職場は今頃怒りのぶつけ合いだ。  もうこのまま家へ帰ってしまおうか?僕はそんなことも考えていた。 しかし職を失ってしまえば明日はない。ここは忍耐が大切だ。夜まで耐えれば済むことなのだ。  鍵をゆっくりを回し、ロッカーの扉を開けた。 作業着、一本のペットボトル。その先には闇が見えた。  闇が見えた。本当に、どこまでも続く闇が見えたのだ。  僕は闇に向かって手を伸ばす。本来ならばあるはずの冷たい金属の壁はなく、闇はどこまでも奥に続いているようだった。  なんだこれは?もしかして、夢でも見ているのだろうか?  僕は何度も壁を探したが、やはりどこにもない。もしかして、同僚の奴の悪戯か?  頬を抓る。痛い。かなり痛い。
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