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プロローグ
日傘を閉じると真夏の強い陽射しが直に肌を刺し、その熱さに思わず苦笑が漏れた。今年の夏はとにかく暑い。この季節に産まれて「千夏」と名付けられた私でも、さすがの気候に日中の外出は避け、大好きなプールや海にも行かずにおとなしく過ごしている。でも今日はそんなことを言ってはいられない。これが最後のチャンスかもしれないのだ。
私はホテルのエントランスの白い大理石の階段をいまだ慣れないパンプスで駆け上がった。約束の十四時までもう数分しかない。白手袋のドアマンがまばゆい笑顔でゆっくりとドアを開けてくれるのを見て、汗をかきつつ小走りで入ってしまった自分が恥ずかしくなってとっさに俯いた。ここは静岡県下でも指折りの老舗高級ホテルなのだ。格式高いホテルの数が限られている地方都市のため、昔から地元カップルの結婚式場として人気があり、私の両親も二十五年前にここで式と披露宴を挙げている。
真っ白な外観とは対照的に、ロビーは深い焦茶を基調にまとめられた落ち着いた空間だ。やわらかいカーペットの上を進むと、右手に少し外の光を取り込む明るい一角が見えた。待ち合わせ場所のロビーラウンジだ。
「えっと……窓際の、庭に面した席は……」
ガラス張りの窓がタイルと芝生に彩られた庭に張り出すように作られた一角には、ゆったりと空間を使ったテーブル席があるが、二つのアームチェアはどちらも空席だった。相手は遅れているらしい。スマホを見ると、いくつかのメッセージの着信通知がポップアップしていた。予約してくれたのは彼だから、彼の名前を言えば席に通してもらえるはずだけれど、なにせ私はその本名をまだ知らない。いつものハンドルネームなら言えるものの、まさかその名前でホテルラウンジの予約はしていないだろう。
スマホとラウンジ内の席を交互に見ながら戸惑う私を見かねてか、スーツをビシッと着こなした女性スタッフがそっと近づいて声をかけてくれた。
「お客様、何かお手伝いできることはございませんか」
「ええと……、待ち合わせでして、ここの窓際の席を予約してるんですが……」
「かしこまりました。『下田』様でいらっしゃいますね。ご案内いたします」
助かった、とホッとして席につく。落ち着いてスマホを見返すと、「マンボウさん」からのメッセージが追加で届いていた。車が国道1号線で渋滞にはまって動けなかったらしい。
【ラウンジの席で待ってますから、焦らずゆっくり来てくださいね】
「ナツ」の名前でメッセージを返信すると、私はフッと息をついた。せっかく待ち時間ができたんだし、汗で崩れた身だしなみを整えて、話す内容の最終チェックをしよう。斜めに流してカールしてきた前髪は崩れかけているけどしかたない。ブラウスからインナーが覗かないように、ネックレスの向きも戻して、と。最初はやっぱり自己紹介だから、いつものように、「三津千夏(みとちなつ)です。二十四歳、書店員をしています」からかな。もうちょっとプライベートを明かしたほうがいいのかもしれないけど、アプリで知り合っただけの相手にあんまり個人情報を教えるのも気が引けるのだ。
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