お江戸

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お江戸

「蝶五郎〜!!」 「いるかあ、蝶五郎」  早朝から飯島屋の門前に篠亮と助左衛門は集まる。 「朝からうるさいなあ」 なんだ、と寝癖を掻きむしりながらと出てくる蝶五郎。 「そこの川に釣りにでも行かんか蝶五郎よ」 助左衛門の家の裏にある山から流れる清流に川魚を獲りに行こうというのだ。 「こんな朝っぱらにかい」 「こんな朝だから良いのだ。そう難しい事を言うでない、蝶五郎」 「はあ」  三人は結局山に向かった。 「のう助佐や知ってるか」 「何を」 「いやねえ、うちのご贔屓から聞いた話だけど。」 「なんだ、焦らすな」 蝶五郎の話に、助左衛門も篠亮も興味津々で耳を傾けるも、蝶五郎はううんと唸ってばかりで一向にはなそうとしない。そんな蝶五郎に二人は額に筋を浮かべそうになる。ガンと、地団駄踏み鳴らす。 「ええい蝶五郎め早く申さぬか!」 竿を投げ捨て蝶五郎を叩く。あたたと、叩かれたところをさする蝶五郎に助左衛門も痺れをきらす。 「おい蝶五郎早く話せ」 蝶五郎はひっそりと話し始めた。 「あいあい、わかったよ。お江戸の上様の御子の話、お前さんら知ってるかい」 「ん?ああ、」 ──父から聞いた そう言いかけて、その言葉を飲み込んだ。人の少ないとはいえど、誰に聞かれているのかわからない。一つ間違えれば、首が飛びかねない話だ。 「どうした」 「あ、いや、気にせんでくれ。続けて」 「わしゃそんな話知らんなあ」 と、呑気に篠亮が言う。 「上様に御子が生まれたらしいんだがな、それが正室のお久さまの御子ではなく、側室のお咲さまの御子で、奥では大変なことになっているらしい。」 「騒いでるのは、お久さまの取り巻きかな。」 「ああ、そうだろうな。お久さまはそんなことするような人じゃないとも、ご贔屓は言っていた。」 「この炎が、どこまで続くか。直に(まつりごと)にも影響が出そうではなあ」 三人はまだ若いが、頭は回るので、腕をくんで考える。 「あ」 ふと、蝶五郎が思い出したように声を上げた。 「どうした蝶五郎、腑抜けた面をして。」 「いや、そういえば。花岡の家が大出世するんだってなあ」 ──花岡だと  花岡。助左衛門の家の、一軒向こうの家。そして何より、絹の家だ。正直、花岡の家がそれほど活躍したという話は 助左衛門含め、他二人も聞いたことはなかった。 「何故」 「詳しくは知らんさ。お前さんは近いんだからそのうちわかるだろ」 「蝶五郎、肝心なところを…おっっ!かかった」 篠亮の竿に一匹の鮎がかかった。  その帰り、助左衛門は蝶五郎の話している内容が気がかりでならなかった。家までの一本道に差し掛かった所で、見覚えのある背中が視界に入った。 「絹」 と、声をかける。その背中はふと振り返ると。 「兄さま!!」 と、返事をし、駆け寄ってくる。助左衛門の近くでぺこりと軽く礼をする。 「水汲みか」 「はい。米を炊くので、お水を」 そういい、手で首にかかった毛を耳にかける。ふと、その首筋に目がいった。 「お前は偉いな。毎日。」 「私にできることをしなければ生きていけませんから。」 にこりと微笑み、あたかも当然のように言う絹。ぽんと、助左衛門は絹の頭に手を乗せた。そして、髪の上から優しく撫ぜる。 絹は少し俯き、頬を紅潮させる。 「はは、子供扱いされては恥ずかしいか。」 「では!」 乱暴に会釈をし、絹は井戸のもとに駆け戻る。 「母上、ただいま戻りました」 「助左衛門ですか。お帰りなさい。」 「詩乃、ただいま」 「兄上お帰りなさい。」  竿を壁に立てかけ、自室に入ろうとした時、そういえば、と母が言う。 「先ほど花岡さまが訪ねていらしましたよ。」 「花岡さまが」 「お引越しなされるのだそうで。ご挨拶にと。」 「引越しですか。」 「はい。絹さんがお江戸に奉公に行かれるようですよ。」 ──絹が 江戸に。驚きを隠せない。あの絹が、江戸に。 「それは喜ばしいことでございますね。わたしからも祝いを伝えねば。」 「明日、日野守神社のお祭りがございましょう。絹さんと入ってきては」 「詩乃、それが良いですね。そうしなさい助左衛門」 「はい」 日野守神社の祭りは有名だ。祭りの終盤に上がる花火を見にやってくる客も多い。 「絹、助左衛門さまがいらしてますよ。」  早速絹を誘いに出る。奉公の話など、知らないふりをした。すんと鼻が冷えたような気がした。 「絹、今夜の日野守祭、共に行かぬか。」 俯く顔をぱっとあげ、絹は瞳を輝かせた。 「はい!」 「そうか。では今夜、この家の門で待っているぞ。」 「はい!」 顔に、満面の笑みを浮かべる絹を助左衛門は静かに見つめた。やはりこの娘は絹なのだ。祭りに行けるのがさぞ嬉しいようで、パタパタと足を躍らせながら 帰ってく絹が微笑ましい。 「いつもありがとうね、助左衛門さま」 「いいえ。絹にはよくしてもらっていますから。」 助左衛門にとっての絹は幼い頃から変わらない。妹のような存在だった。 「よろしくね」 「はい」 軽く挨拶を交わし、花岡宅を後にする。 ──直に… この家は人がいなくなるのか。そう思うと途端に侘しいような気持ちがこみ上げてくる。ぐと唇を噛み、堪えてみる。得体の知れない感情は腹の中で 蠢き、助左衛門を襲う。 その夜── 「何か買うか」 「いえ」 と、いいつつも、飴細工に目がいく絹を助左衛門は知っている。 「旦那、一つ」 「はいよ」 「ほら、お食べ。こう言う日はそう我慢をするな」 「ありがとうございます」 そういい、絹の柔らかな手が、助左衛門の手から飴細工の金魚を受け取った。一口、一口と、絹は飴を舐める。 「うまいか」 「はいとっても!」 「そうか。よかった。」 ふと、心が温かくなった。 「お、助佐。逢瀬か?」 聞き覚えのある声が助左衛門の耳に届く。 「いやいやあ逢引きじゃないか?」 「違う。お前たちもきていたのか、蝶五郎、篠亮。」 「ああ。こりゃすまねえな、いいところ邪魔しちまって。」 「そうではないと言っているだろう。」 「そうかい。抜け駆けはするなよ。」 そうとだけ言い残して、二人は去っていく。 「全く、人騒がせな。すまんな、絹」  驚いた、と言っていいだろう。絹は頬をこれまでに無いくらいに好調させ、飴を握りしめていた。両の唇を噛み締めて潤んだ目はこちらを軽く見上げている。 その体が少し傾いた。 ぽすんと、己の胸の辺りに、重みがかかる。 「絹?」 「花火が、あがります。行きましょう。」 柔らかい手は、助左衛門の平たい手をきゅと握り、引いていく。  絹は助左衛門を人の少ない堤に連れて行った。 「ここは人も少ない上に花火がよく見えます。」 「そう、か」 どんと、大きな音で花火が弾けた。 「今年も、美しい。」  そういい、微笑む絹の顔に花火の色彩が映る。心地良さそうめをつむり、絹はふと口にした。 「兄さま。」 「?」 「私、お江戸に参ります。」  一際大きな音で花火が弾けた。  目を見開く助左衛門の横で、絹は助左衛門をまっすぐに見つめていた。どこか、寂しそうな、苦しそうな顔をしていたのは 気のせいだったろうか。  帰りはほとんど一言も交わさなかった。 「絹」 「はい」 「気をつけるんだよ」 たったそれだけ。  絹は眉をハの字にして、困った様に笑うばかりだった。  翌日。花岡の家を訪ねても絹はいなかった。その日の早朝にたったようで、助左衛門の家には挨拶にはきたものの、 助左衛門に会うことはしなかったらしい。  いつものように、井戸に水を汲みにいく。 ──何か忘れたか どこかに、何かを忘れたような気分になった。心の臓にぽっかりと穴が空いて、そこから風が吹き抜けそうだ。 なのをしても、から回ってしまう気がしてならない。 「これ助左衛門。何をぼうとしておられますか」 「母上」 家の方から聞こえる千代の声にふと我に帰る。 「遅れてしまいますよ。」 「すみません、考え事をしていて」  千代は助左衛門の顔を見て、心配そうな瞳をした。千代の優しいてが、助左衛門の頬をそっと撫でる。 「大丈夫ですか。」 「私は別に。」 「そうですか」 辛い時は頼ってくださいね、と言葉を残し、千代は家に入っていく。
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