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 絹が、お江戸に参って、2年が経った。助左衛門はというと、夏頃に元服をした。 「これでお、お前さんも晴れて大人のお仲間入りだな」 と、蝶五郎が助左衛門の背中をドンと叩く。 「ありがとう」 「なんだ、浮かない顔をして。」 蝶五郎が助左衛門の顔を覗き込み、言う。目の前で手のひらを振る。 「なんだ」 「お前、大丈夫か?」 「ああ」 とは言うものの、助左衛門は大丈夫などではなかった。去年の暮れ、吉之丞が倒れた。それから、助左衛門は 一家の大黒柱として家を支えている。  吉之丞の死は突然だった。ある夜、助左衛門は一人、本を自室で読んでいた。ふと、吉之丞の部屋の方から物音が聞こえた気がして、 向かってみると、父は、襖の付近に倒れていた。千代と詩乃を呼び起こしたが、時すでに遅し。吉之丞の脈はなく、ただ冷たい。 千代は、その場に力無く腰を落とした。詩乃は亡骸に覆い被さり、おいおいと泣いた。  助左衛門は、唖然とその光景を見るばかり。吉之丞との別れが、こんなにも早く来るとは思っていなかった。  そのこともあって、蝶五郎と篠亮は助左衛門のことを気にかけるのだが、とうの助左衛門は気づきもしない。 父のいない時を生きるのに精一杯になっていた。 「お前は、藩主さまの城で働くのか。」 「ああ。父上の跡目を継ぐよ。」  何より、遺された母と、妹を養わなければならない。 「お前は、大変なやつだけど、立派だよな。」 篠亮もきて、ふと言う。 「でも、なんでそう、お前は、」 「この世は因果応報だ、篠亮よ。」 どうすることもできない、遠い目をして助左衛門がつぶやいた。 「過去か、はたまた前世か。私の行いが悪かったのだろう。」  諦めたような声色で、俯きながら言葉を紡ぐ。 「今の私は、善行を積もうと、因果が絡むのだ。」 「助佐、そんなこと言うもんじゃない。」 「そうだぞ、助左衛門よ。因果だのなんだの関係ないだろう。」 篠亮と蝶五郎がどうにかこうにか前に向かせようとするのとは裏腹に、助左衛門の心は沈むばかりであった。  何かが引っ掛かり、気がかりでならない。 「そう暗くなるもんじゃないよ、助佐。」 「そうか。このさきが、明るいといいのだが。」 月を見上げる。 ──十六夜か ふと、昨日が十五夜だったことを思い出す。 「月は、綺麗だな。」 「ああ」 助左衛門の言葉に篠亮と蝶五郎が頷く。  こんな平穏が、いつまでも続けばいい。そう願った。 それから6年。  秋も、終わりに近づいているこの頃。助左衛門はといえば、藩主に気に入られ、昇進した。石高も。少しばかり増えた。 その少しでは生活は大して変わらないが平穏が保たれる毎日は、助左衛門にとって、幸せ以外の何者でもなかった。 「詩乃の見合い、ですか。」 「はい。」  詩乃にも、ありがたいことに見合い話が舞い込み、祝言もあげることになった。詩乃の幸せそうな顔と言ったらない。 助左衛門は心底幸せな気分だった。  浮かれていたのかもしれない。  同じ奉公人の野崎嘉兵衛という男がいた。助左衛門hその男が心底嫌いだった。狐のような、鼠のような男で、いつもこそこそと 何を考えているのかわからない。 「助左衛門殿、飲みにでもいきませんかい。」 そう持ちかけられ、助左衛門は悩んだ末、それを承諾してしまった。 「そいや、今度、そこの御殿にとある方が移り住んでくるようですねえ」 「とある方とは」 「お江戸の上様の側室さまでねえ」 「名は」 ちょっとした興味だった。 「確か、お絹さまとか言ったっけねえ」 「は」 全身の毛が、ぶわと逆立つのを感じた。 「どうかしましたかい」 「あ、いや。聞いたことのない話だと思い」 「他言無用ですぜ、助左衛門殿」 「おい。野崎殿。はてお主。その情報はどこで。」 「とあるツテでね。」 含みのある言い方を残す。 「今日はお開きとしましょうかね」 「ああ」  ただ一つ、心残りがあるとすれば、その情報の元だ。どこからきたかもわからぬ情報を、そう おいそれと信じることはできない。  翌日、蝶五郎を訪ねた篠亮と助左衛門は驚きの話を聞いた。 「奥が荒れに荒れてるっちゅう話だよ。」 「ふむ」 「正室のお久さまの取り巻きかい。」 「ああ。お久さまの取り巻きが殿の御寵愛を受けてる御側室さまたちにいろいろちょっかいかけてるみたいだ。しかもやりすぎた。」  蝶五郎は眉間をキュと押す。 「先月の暮れ頃にはお咲さまの毒見役が倒れたらしい。」 「うわ、そりゃひでえな。」 「それで、お久さまの計らいで、数人の御側室様が地方の御殿に移されたらしいんだ。」 なぜこうも蝶五郎が城勤の篠亮と助左衛門よりものを知っているのかは、彼の人柄もあるのだろう。呉服の大店飯島屋を継ぎ、旦那になり 客と話す機会も増えた。おまけに喋りが上手く、親しみやすい。しかし口は硬い。 「そこからが本題だ。それぞれ、国元が近い御殿に移されたらしいのだが、桔梗御殿にも」 「桔梗御殿ってそこの?」 「ああ。そこに移されたのが、お絹さまらしいんだ。」 「は、お絹さまってあのお絹かい。助左衛門の、」 ああ、と蝶五郎は頷く。助左衛門は額に汗を浮かべる。 「そのほかの、情報は。」 「いや、特にないな。喜べ助左衛門。御子はいないらしいぞ。」 「喜べるかど阿呆。」 不謹慎な、といい、蝶五郎の頭を一発殴る。 「あいたたたた、だがしかしなあ。御殿に移したからとて安全とは言い切れぬものだよなあ。」 「そうだな。」  災禍の中心から離れたことで、大きな危険はないか無しれないが、殿の目の届かないところが返って好都合になることもある。 助左衛門は知っていた。 「私は部外者だが、篠亮、助佐、お前たちは決して部外者とはいえないぞ。」 蝶五郎は、元の飄々とした雰囲気から打って変わって、真面目な声色で続ける。 「お前たちは城勤だ。城の中にはもしやしたら裏切り者がいるかもしれない。今私が話したことは城内部も秘密にしているような 内容だ。うちのご贔屓が地位のお高いひとなのは承知していると思うが、お前たちのような武士には決して知らされないような内容だ。 これがもし漏れたら、首が飛ぶぞ。」 ぞ、としたものが助左衛門の背をかける。 ──それでは、野崎が言うたあの話は ハッとして、助左衛門は駆け出す。 「あ、おいどくへ行く!」 「ちと城に!」 ──これは今すぐに、藩主に伝えねばならない。   城の門を入り、藩主の元へ駆けた。 間に合ったようだ。 「藩主、本居織之助さまに、藤江助左衛門より、重大な報告がございます。」 「なんだ助左衛門」 「お手数ですが、人払いを」  藩主、本居織之助に人払いをさせ、静かな部屋で助左衛門は情報が漏れていることを丁寧に説明した。 「なんだと」 「私はこの話を野崎嘉兵衛殿から直接聞き申しました。しかし、この城ではその話は誰も知らぬご様子。まさかとは思い、 ご報告致した次第に候。」 「ありがたい、よくぞやった。野崎嘉兵衛、何かと怪しい男かと思えばやはり。」 「暗部を、動かしましょうか。」 「そうだな。」  数日後、野崎嘉兵衛が討たれたという情報が流された。実際は本居が直々に野崎を呼びつけ、その場で罪を明らめ、助左衛門が斬った、と言うものだ。 情報の漏洩を防ぐために助左衛門の率いる暗部が動き、城下には偽りの情報が流された。 「助左衛門や」 「は。ここに。」 「今、この国は荒れておる。」 本居はその美しい目で、城下を見渡す。憂いを帯びた瞳で、助左衛門を見、笑う。 「生きるのだぞ、何があろうと。」 「は!」 本居は助左衛門よりはるかに年上だ。世のことをよく知っている。  助左衛門は本居の側により、静かに、城下を見渡した。
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