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 御殿のことを本居から聞いた助左衛門と篠亮は時々、その近くを通るようになった。蝶五郎も御殿のことをこまめに気に掛けた。 「最近は変わりないようだな。」 ふと、料亭の個室で三人で飲んでいた時、篠亮が言った。 「ああ。変わらず平穏さ。蝶五郎のところは子供が幾つだ。」 「まだ一つだよ。」  冬の終わり頃に蝶五郎に息子が生まれた。 「そういや、お前の妹のとこはどうなんだい。」 良家に嫁いで行った詩乃も子供を授かった。 「まだ腹の中だが、元気にやっているらしい。」 「まだ若いのにおじさんってか。」 「おいやめろ」 酒の入った盃を片手に、語り合う。夜は長い。 「お前さんは嫁さまを娶るつもりはないのかい」 ふと、蝶五郎が聞いてきた。 「ああ。あまりないな。」 「俺たちもついには二十三か、助左衛門よ。」 「私は二十四だが。」 「大して変わらんだろうよ。」 ふはと、笑い合う。今年も平穏は保たれた。  ある日のことだ。篠亮と助左衛門が巡回の準備をしている時。 「御殿から火の手が!!」 と、早馬が入った。どう考えても、放火以外の何者でもない。助左衛門と篠亮は刀片手に馬を駆って出ていく。 遠目に見た御殿からは白い煙が上がっている。 「これは…!」  辿り着くと、すでに火の手は大きくなっていた。 「あ、おい待て助左衛門っ!」  篠亮の制止も聞かず、助左衛門は近くの井戸水を頭から被り、炎の中に入っていった。煙が入らぬように袖口で口元を塞ぎながらも、 人を探す。 「誰か!誰か、息のあるものはおりませぬか!」 足元にはもう既に時遅しとでも言うように、倒れた者の体が転げている。 「息のある者は、おらぬのですか!」 必死に叫ぶ。暑い。  その時、奥から物音が聞こえたような気がした。 「!」  助左衛門は襖を破り倒し、奥に駆ける。 「誰か、いらっしゃる…ッ」 ぐと、胸から喉に何かが込み上げてきた。助左衛門はどうにかそれを堪え、言葉を紡ぐ。 「あなたが、お絹さまでございますか」  ふと、顔を上げたその顔は助左衛門の見慣れたお絹の面影をはっきりと残していた。あの頃から幾分か薄くなった頬。豊かな唇と、潤む瞳は 何一つ変わっていなかった。 「助左衛門…の、あにさ、ま」 「お絹さま、外に出ます。どうぞお乗りください。」 そういい、背を貸す助左衛門にお絹の細い腕が縋る。 「兄さま、助左衛門さまなのでしょう。」 か細い声が助左衛門の耳に届く。返事は、しなかった。  門へ向かうと、篠亮とその他の仲間、そして放火の犯人側であろう者たちが斬り合いをしている。  一人が助左衛門に気付き、刀を構え向かってくる。 「お絹さま、どうか目を瞑っていてください。」 と、一声かけお絹を背に抱いたまま刀を抜き、相手の刃を凌ぐ。きゅと、助左衛門の肩に回る腕の力が強くなったのを感じた。 「その女を渡せ!」 「貴様にお絹さまを渡す義理はない。貴様にはここで死んでもらう。」  驚くほど、冷徹な声が腹の奥から滲み出た。 「なれば、その女共々ここで死ねい!」 斬りかかってくる男を刃をまたも凌ぎ、背後に回り込み、袈裟斬りに斬る。返り血が頬に飛んだ。  迫り来る刺客を避けては斬り、斬っては凌ぎを繰り返す。助左衛門の肌と服には赤い鮮血が浮かぶ。 「覚悟!!」 「ぐ…‼︎」  ふと、背後に気配を感じ、咄嗟に避けると、右腕に鈍い感覚が走る。 「貴様アアアアッッッ」  篠亮が鬼の形相で男を背後から斬った。そして助左衛門を見て、 「逃げろこの阿呆が!何をぼさっとしている!」 「!かたじけない!」 「馬がねえ!走れよ!」  門までの距離を助左衛門は力強くかけた。 ──傷つけてたまるものか  刀傷から血が噴き出る。しかし、助左衛門は駆けた。御殿を抜け出し、静かな橋八町まで。駆けて駆けて駆けた。 右腕はすでに使い物にはならない。左腕と、右の手首から上で、お絹の体を支える。  風が頬にあたり心地が良い。 ──このような時に、心地が良いなど。不謹慎か。 心の中で少し苦笑した。 「兄さま、助左衛門の、あにさま」  絹の掠れた声がまた聞こえる。 「助左衛門さまなのでございましょう。お返事を、どうか…」 「お絹、さま。もう少しでございます。」 「助左衛門さま、助左衛門さま。」  背のお絹は、まるで母を呼ぶ幼子のように助左衛門の名を呼ぶ。 「助左衛門さま、どうか返事をしてくださいな。」 「…き、ぬ」 腕が痛む。あと少しだ。  走り続けること十数分。橋八町の藤江の家の付近にある鎮守の森に辿り着いた。鎮守の森とはいえ、それは幼い頃の助左衛門と篠亮、蝶五郎らが つけた名だ。 「ここなら、もう、安全でございましょう。」  絹の体を優しく下す。  その途端、助左衛門の胸元が重くなった。 「助左衛門さま、助左衛門さま。」 涙ながらに絹が助左衛門の胸に縋る。眼からこぼれ落ちる涙は助左衛門の衣を濡らす。 「絹、久しいなあ、達者であったか…?」 「兄さま、兄さま、私お江戸に参ったものの、心はいつも兄さまのもとに。苦しゅうございました、兄さま。」 孤独の身を嘆き、絹が続ける。 「お久さまの計らいでこちらには帰って来られたものの、家族にも会えぬ日々。悲しゅうて、苦しゅうて。」  震える絹の体を助左衛門は優しく抱きしめる。 「ああ、助左衛門さま。」 絹の細い指が助左衛門の衣を強く掴む。 「お慕いしておりました、助左衛門さま…助左衛門さま」  真のある声が、はっきりとそう口にされた。 「幼き日から、貴方様のことを、お慕いして、おりました…!」  薄く、桃色づいた絹の唇。その唇に助左衛門は静かに己の唇を落とした。 絹は驚いたように目を見開き、そして再び涙を流した。 「ああ、絹、絹や。私もそなたを愛している、ああ絹や。」 「助左衛門さま、助左衛門さま。」  絹はさらに強く、唇を求めた。助左衛門もそれに応えるように強く口付けをした。 絹の腕はしっかりと助左衛門を抱いている。  そこ知れない喜びに涙を流す絹を優しく包み込み助左衛門は深く息をついた。 「すまないな、絹」 「え…?」 静かにそう呟き、絹のうなじの辺りに手刀を入れる。絹は力無く助左衛門の足の上に倒れ込んだ。 「くッッッ…!」  もう、ほとんど感覚がない。目の前がひどく歪んで見える。 「血を、流しすぎたか、ふふ。」 荒くなる息をおさえ、笑って見せる。  月の光が差し込み、青白く助左衛門の顔を照らす。 ──ああ、なんて寒い。  腹の奥底から、寒気と共に、悔恨の念が込み上げてくる。 ──ああ、どうしようか。母上を一人、遺してしまった。詩乃も、すまんなあ。私は情けない兄だなあ。  ふと、膝の上の絹に目を落とす。眠るような顔をして、気を失っている。 ──絹、絹。気づいてやれなくて、すまなかった。苦しい思いを、させたなあ。 優しく額に唇を落とす。 「絹…愛して、おるぞ…」  優しい朝日が絹の顔を照らす。ふと、絹は目を開ける。 「朝…」 すると、絹はたちまち昨夜のことを思い出す。絹は赤面して顔を覆った。  ふと、自分が何か硬いものの上に寝ていることに気がつき、ガバと起き上がる。 「助左衛門さま、助左衛門さま、起きてください。」  舞い上がった心を落ち着けながら助左衛門の身体を揺する。 「朝でございますよ、助左衛門さま。」  何か、生暖かいものが、絹の手を濡らす。血だ。助左衛門の体は血だらけだった。 「助左衛門さま、起きてください、もう朝でございます…!目を、開けてくださいな…っ。」  揺すっても、頬を叩いても。固く閉じられたその目は開かない。抱きついてみても、その腕は、重く、力無く垂れている。 唇を落としても、伝わってくるのはひんやりとした温度。 「朝でございますよ、助左衛門さま…ッッッッ、助左衛門さまッッッッッ!」 嗚咽が、喉から込み上げるとともに、大粒の涙がこぼれ落ちる。 「こんなの、こんなの、あまりにも…ッ」  冷えた体に縋り、静かに啜り泣く。森は静かにその音を聴いている。  ふと、絹は助左衛門の腰元にある小刀を手にとる。 「今生で共になれぬのなら、次こそは、来世こそは、どうか貴方さまと共に…っ」  鞘から小刀を抜き、喉元に突き立てる。 「助左衛門、さ、ま」  喉を一思いに斬り、絹は助左衛門の体に寄り添うように倒れた。 助左衛門も、絹もどこか微笑んでいるような顔をしている。  暖かな春の日差しが二人を静かに照らしていた。
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