橋八町

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橋八町

壱 ──眩しいな  いつもと変わらない朝日が昇る中、藤江助左衛門は外のいどに水を汲み行く。 藤江助左衛門は藤江家の長男で15歳の青年だ。下には九つばかりの妹がいる。 藤江家は冴羽藩に属する。冴羽藩は江戸から約二十五里ほど北にある藩だ。その冴羽藩の城下より、北東に位置するのが、 助左衛門の住む橋八町である。  町とはいえど、見回してみれば辺りは田んぼが広がるようなところである。高位な武士というよりは、下級の武家が住んでいる。 「助左衛門の兄さま!」  ふと、明るい声が助左衛門の耳に入る。目線を声の主に移すと、そこには十三ほどの娘が立っている。 「絹か。おはよう」 「おはようございます!」  お絹は助左衛門の家から一軒向うの花岡の家の娘で、助左衛門とは幼い頃からの馴染みだった。助左衛門はお絹のことを妹のように、 お絹は助左衛門のことを兄のように慕っている。 「兄さま、みてください。家のお庭にある畑で茄子が取れたのです」 朝から泥にまみれた顔に満面の笑みを浮かべ、絹は自慢げに語る。普通なら遊び盛りであろう年頃の娘は、家の仕事をたった一人でこなす。  絹の家は、助左衛門の家より少し貧しい。父親は毎朝早くに城に赴き、母は下の子らの世話を、そして、その他の家事、洗濯や炊事は絹が受け持っているのだそう。いつも朝早くから泥まみれになりながらも笑顔を絶やさない絹を助左衛門はずっと見守ってきた。 「茄子か。これはまた糠につけると良い味を出す。味噌汁に入れてもいいだろうなあ。」 「味噌汁かあ、お味噌も作らないといけないなあ」 ここらの家は基本自給自足だ。それは花岡の家に限らず、藤江の家だって同じだった。 「これ助左衛門。塾に遅れますよ」 家の方から母、千代の声が聞こえる。 「母上只今参ります」 そう返事を返し、絹の方に向き直る。 「すまんな、絹。わたしはこれから塾があるゆえ、先に行かせてもらう。」 絹は少し眉を上げて、寂しそうな顔をした。 「それではな、絹」 「はい、兄さま」 憂いを含むような瞳を一瞬見せてから絹は助左衛門と別れた。 弐  助左衛門の通う蟻生塾は橋八町の隣町、橘町にある。歩いて20分ほどかかるが、馬もないので、歩くしかないのだ。 昼五つの鐘が鳴ったのを確認して助左衛門は歩き出す。この時間でこの速さで歩けば、遅刻することは確実にないであろう。 「助左衛門じゃないか」 「篠亮(しのすけ)か」 「おはよう」 「ああおはよう」 ちょうど同い年の橋場篠亮が道の途中で合流した。 「なんだなんだ、浮かない顔をして」 「そんな顔してなどいない」 「まあた妹君のことでも考えておるのか。全く」 「絹のことか?」 全く独り立ちしないダメな兄さまだな、と篠亮が助左衛門をいじる。助左衛門は腕を組みしかめ面をした。 「とはいえど、私は絹の実兄ではない」 「あっちからすれば実兄のようなものだろう」  助左衛門と絹の出会いは、8年前、助左衛門が七つ、絹が五つの時まで遡る。橋八町に越してきた絹の父花岡喜兵衛と女房お房が助左衛門の家に挨拶に来た時。お房の背に隠れ、小さくなっていたのがお絹だった。 ──やあ と、優しく声をかけてみたが、かえって驚いたらしく房の後ろに引っ込んでしまった絹が助左衛門の瞼の裏に浮かぶ。 ──お主、名はなんともうす ──きぬ 名を問うと、小さな声でそう返す絹。 ──あの絹が… もう、十三になったのか、としみじみ思う。あの幼く頼り甲斐のなかった絹が、十三になり、母の代わりに家事全般を請け負い暮らしている。 成長したのだ。 「おい、おい助左衛門!」 「ん、ああ、なんだ」 「一人でそう考え込むな」 「すまない」  篠亮と話しているうちに、塾に着いた。それほど豪華な作りではないが、助左衛門たちにはそれで十分だった。その小さな学び舎は助左衛門の全てであった。剣も得意だが、助左衛門は学ぶ方が好きであった。塾は彼に国を教えた。社会を教えた。生きる道を教えた。 助左衛門の人生だ。 「助佐!篠亮」 「蝶五郎!」 呉服の大店飯島屋の息子蝶五郎が門を潜った二人のもとに駆け寄る。 「おはよう!」 蝶五郎は二人よりひとつ年上だが、歳など気にしない気さくな男だ。 「今日は、五輪書だったかな」 「ああ」 「俺は難しすぎて投げかけた」 そんな他愛もない会話を毎日のように繰り返す。その普通が助左衛門にとってはどれだけの幸福か。  昼七つの鐘が遠くから聞こえると、塾の講義は終わりを告げた。教室からはゾロゾロと子供らが出ていき、元気な声で話しながらそれぞれの家に 走り帰る。 「寄り道をしよう」 と誘う篠亮に、助左衛門と蝶五郎はキッパリと拒否して、三人は仲睦まじく家路についた。 参   「只今戻りました母上」 「お帰りなさい、吉之丞さんも戻っていますよ」  玄関に迎えに来た千代から父の吉之丞が帰っていると聞いて、助左衛門は目を輝かせた。 「兄上お帰りなさい」 「ただいま詩乃」 妹詩乃に挨拶を返し、父が待つ座敷に急ぐ。 「父上、失礼いたします!」 襖を引き開き、入室する。父は座敷に静かに座っていた。 「助左衛門か、こうして話すのは久しいな。元気だったか」 「はい!もちろんでございます!」 吉之丞は朝早く城に上り、帰ってくるのも、たいてい助左衛門が寝ついた後だ。こうして話すのは十数日ぶりといったところだ。 喜色満面で助左衛門は父の前に腰掛ける。 「城でのお仕事は如何ございましょうか。」 「ふむ、特に変わったことはない。」  父の城での働きや、城下の様子を聞くのが、助左衛門は好きだった。幼い頃からその話を聞くのが助左衛門の楽しみ。 城下では特に変わったことはないようで、いつものように商いが行われているらしい。助左衛門は城下に一度も行ったことはないが、 父の話に想像を膨らませ、浄化を夢見るのだ。 「変わったことといえば、ふむ。これは噂だが、江戸の上様に子が生まれたとか。」 「お久の君さまとの御子でございましょうか」 「それが、正室のお久さまを差し置いて、側室のお咲さまの御子らしいのだ」 「それは」 ──なんとも と、言いそうになり、助左衛門は口を押さえた。 「これまた嵐が巻き起こりそうですな」 「そだなあ」 「…」 と、夜五つの鐘がなった。 「もうこんな時間、寝なさい、助左衛門」 「は。失礼致します」 「吉之丞さま」 「千代。そう案ずるな。」
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