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依頼主は、作り置きの作業を一緒にやりたいという。
そのため、食材などの調達は、事前の聞き取りの時に、
伊織が買い物メモを送り、それを基に家主が済ませていた。
「私、あまり料理が得意ではなくて…。だから、作っていただきながら、教えていただきたいんです。知り合いから松雪さんの事を聞いたので、是非。今回ご指示いただいたお買物も、すごく無駄がなくて、本当に勉強になりました」
「そう言っていただけると…。今回は、6品作る予定です。それでは始めましょうか」
伊織は、依頼主とともにキッチンへ入った。
可愛らしい奥様は、苦手と言いつつも、
基本はしっかり抑えてあった。
「奥様、全然大丈夫ですよ?私なんかよりずっと出来てます」
「一応、教室にも通っているんです。でも、何というか…。私が習いたいものって、教室ではなかなか学べないんです」
「学びたいもの…ですか?」
「はい。私が覚えたいのは、松雪さんのような『手際の良さ』なんです」
なぜ依頼主が『一緒に作業したい』と言ったのか、
その理由がようやく分かり、伊織はその要望に応える。
「わかりました。では、作業のつづきを始めましょうか」
「はい」
依頼者から乞われた作業を続けた。
□◆□◆□◆□
伊織は、依頼者に理解できるように、
依頼者が求める『手際の良さ』を伝えていく。
そうして、予定時間ぴったりに、宣言通りの品数を作り上げた。
「どうですか?私がいつもやってるやり方なんですが…」
「凄いですね…。こんな短時間で、これだけの材料で6品…。私なら、一日かかってしまいます」
「出来るだけ、同じ作業はその時に済ませるんです。切る作業、火を通す作業…という風に。そうしたら、無駄な動きが減りますから、その分時間が節約できます」
「本当に、勉強になります。片付けながらの作業も、私はこうはいきません」
こうして、二人でさらにお喋りしながら、残った少しの片付けを済ませ、
伊織は、今回の依頼を無事終えた。
「松雪さん、この後は?」
「はい。今日は、こちらのご依頼で最後です」
「では、お茶していきませんか?もう少し、お話がしたくて…」
「…………それじゃあ、お茶だけ」
伊織は、お茶に呼ばれて無下には断れず、
依頼主と他愛のない会話を交わし、思いの外楽しんだ。
「それでは奥様、ご馳走様でした。本日は、ご利用ありがとうございました」
「はい。大変勉強になりました。ありがとうございました」
こうして無事、今日の仕事を終えることができた。
□◆□◆□◆□
エントランスに降りて、コンシェルジュに預かっていたゲストキーを返却していると、
ここに来た時に出会った、ブラック集団にまた出くわした。
(………また逢っちゃった。やっぱ、怖いなぁ)
そう思いながら、コンシェルジュに挨拶をして、
その場をそそくさと退散する。
コツコツと、広いエントランスに、やけに靴音が響く。
黒い塊が、伊織に近づいてくる。
やがて、ブラックな集団と自分が重なり、体がすれ違う瞬間、
「おい」
突然、集団の中から声を投げられた。
それは、耳にとても心地いい声だったが、
伊織は、驚きながらも足を止めなかった。
(……何!? 私は、話すことなんて無い無い!!)
気付かない振りをして、伊織は一目散にその場を後にする。
その背中に、
「おいお前、ちょっと待て!」
引き止めるような声が投げられたが、
(待てと言われて、待つわけないでしょー!? さよならっ!!)
伊織は、どんどん歩くスピードを速めながら、心の中で叫ぶ。
やがて、あっという間に伊織の姿は、小さくなり、
そのまま街の喧騒に紛れて見えなくなった。
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