虎穴01 獲物は家政婦

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 伊織が、あっという間に喧騒に紛れていくのを、  声をかけた人物は、呆然と見送っていたが、 「佐伯。あの女、どこの女か調べろ」 「わかりました。すぐに」  即座に伊織の調査を指示する。  佐伯と呼ばれた男は、とりあえずコンシェルジュの元へ向かった。  伊織を気にするこの男の名前は、  橘彪仁。  彪仁は、このマンションの最上階に暮らし、  この街で一番の大企業、橘商事の代表取締役社長であり、  この街を裏で支配する、極道・橘組の若頭。  それが、橘彪仁という男が持つ顔だ。  彪仁は、伊織を見た瞬間、なぜか気になった。  小さな顔に、パーツが端正に並び、  少し柔らかそうな髪は、後ろできっちりと纏められ、  華奢な体だが、出るとこは程よく出ていて、シルエットが完璧。  伊織の何もかもが、彪仁の琴線に触れた。  ざわざわと心が騒めき、傍に置きたいと渇望が沸く。 「若、とりあえず、先程の女性の名前と勤務先です」  佐伯から渡された名刺には、  『山科家政婦紹介所 松雪伊織』  取り敢えず、職場と名前が割れた。 「後の調査も頼む」 「わかりました」  そう言って、彪仁は佐伯に名刺を返しながら、伊織の調査を指示した。  伊織と彪仁の、これがファーストコンタクト。  そして、  あっという間にいなくなった伊織が、  猛獣(彪仁)に獲物として狙われる。  これが、そのきっかけだった。 □◆□◆□◆□  喧騒に紛れ、彪仁から逃げ出した伊織は、  足が止まるまで、一目散に走った。 「はぁっ、はっ、……っ、はぁ……っ」  息が苦しい。  心臓が壊れるくらい暴れている。  後ろを振り返り、追われる心配がないことを確認して、ようやく足を止める。  壁に寄りかかり伊織は、心臓と呼吸が落ち着くのを待った。 「………はぁ、何で私、こんな………走ってんだろ…」  突然思い立ち、不思議に思った。  捕食者に睨まれ、狙いを定められた獲物は、その視線を察知し、  無意識に、瞬時に、その危険から回避行動をとる。  それは、火事場の何とかのように、自分の限界以上の力を発揮する。    そんな獲物の心境なのだと、伊織は気づいていなかった。  身体が落ち着き、呼吸を整えて、 「…………はぁ、疲れた。………帰ろ」  伊織は、今日もいつもの買い物をして、家に戻った。  部屋で、いつものようにストロング缶を煽る。  ラグの上で胡坐をかいて、天井を仰ぎ、  今日の捕食者()のことを思い出す。 「何だったんだろ…。あれは、関わっちゃいけないヤツだ」  怖い怖いと、一人、部屋でフルフルとオーバーに首を振る。  ストロング缶を煽ると、すでに中身は空だった。  ブンブンと振って、滴を落とす。 「…………飲み足りない」  今日は命の危機に晒されたので、心が疲れ果てている。  カラン…と、無造作に空き缶を床に転がした。 「……………」  今日ほんの一瞬、すれ違っただけ、顔もまともに見ていない。  見えたのは、磨き上げられた靴先と、あの耳障りのいい(イケボ)。  ただそれだけなのに、  伊織の頭にこびりついてしまった。  怖くて見ることが出来なかった、捕食者の顔。 「…」  遠くでお風呂が沸いたとアラームが鳴っている。  また明日も忙しい。  伊織は、重い体を無理やり立たせ、  今日の心と身体の疲れを癒した。
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