3420人が本棚に入れています
本棚に追加
妊婦生活も順調に過ごし、伊織のお腹は目に見えて大きくなった。
「大きくなったな。動くのか?」
「はい。結構、ボコボコ蹴ってきます。でも、彪仁さんがいると大人しいですね。怒られると思ってるのかな?」
そう言って、伊織はクスクス笑う。
「でも、蹴られると痛くないのか?」
「そうですね。少しだけ。でも動いてくれた方が…」
「彪翔(あきと)、伊織の中で暴れるな。伊織が痛がる。大いに動いていいが、伊織に負担を掛けるな」
お腹の子供に触れながら、彪仁はいつも言い聞かせていた。
子供の性別が男の子だと分かると伊織は、決めていた名前を彪仁に伝えた。
「彪仁さん、お腹の子は男の子でした」
「そうか」
「それで、名前を決めたんですけど…」
伊織はそう言うと、一枚の紙を取り出した。
そこには、美しい筆文字で、
橘彪翔(たちばなあきと)
そう記してあった。
「どうですか?『彪』の字は動かないので、それに合わせる一文字を考えた時、思いのままに羽ばたいてほしいなと、シンプルに『翔』の字を合わせたんですけど…」
彪仁は、いいと思った。
何より、伊織の名付けた名前。
反対する理由など、あるわけがなかった。
「ああ、伊織が願いを込めて付けた名前だ。いいと思うぞ?」
「お父さんたちにも聞かなくていいですか?」
「いいだろ。俺と伊織の息子だ。二人で決めればいい」
「そうですか…」
伊織は、彪仁の言葉を少し寂しく感じてしまう。
彪仁はその機微を感じて、伊織をそっと抱き寄せた。
「だが、伊織が相談したいのならすればいい。親父もいいと言ってくれると思うぞ?」
「はい。ありがとう、彪仁さん」
伊織は、彪仁が許可してくれたので、翠がマンションに来たタイミングで、
この名前で決めていいか、尋ねることにした。
「お母さん」
「うん、何?」
「あの、子供の性別が男の子だと分かったんです」
「そうなの?」
「はい。それで、名前を考えたんですけど…」
「なんて決めたの?」
「はい、これです」
彪仁に見せたように、翠にも筆文字を見せた。
すると翠は、無言で写真をパシャリと撮った。
「あの、お母さん?」
「ん?決定でしょ?彪雅さんに見せるの」
「えっと、いいんですか?」
「どうして?子供の名前の決定権は親にある。私も彪雅さんも文句は言わないわよ?とってもいい名前。立派な名前。願いの籠った名前。ありがとう、伊織ちゃん。孫の名前に『彪』の字を受け継いでくれて」
その言葉を聞いて、伊織は泣きそうになる。
「もぅ、伊織ちゃんは可愛いっ。こんな事で泣かないでよ…」
「だって、お母さんがそんなこと言うから…」
「彪雅さんに名前を見せた時の反応を、教えてあげるから。今送ってもいいけど、私が直に反応を見たいから、いい?」
「ふふ…はい、もちろんです。お願いします、お母さん」
その後、送られてきた彪雅の様子は、まさに想像通りの喜びようだった。
伊織の妊娠生活は、最後まで順調に経過し、予定通り陣痛が始まる。
病院へと向かう車の中で、伊織に寄りそう彪仁は、
「彪翔、伊織にあまり痛い思いをさせずに、するっと出てこい。分かったな?俺も彪翔に会えるのを、こちらで待ってるから」
陣痛に痛みに耐える伊織に寄りそう彪仁が、お腹の彪翔に指示を出した。
その指示を、彪翔が聞いていたかどうかは分からないが、
彪翔は、それほど時間は掛からず、言葉通りするっと、
伊織が苦しがったり、痛がったりする間もなくぶじ、
二人の子ども。橘彪翔は、元気にこの世に生まれてきた。
「伊織、お疲れ様だったな」
「………はい。彪翔、ちゃんと彪仁さんの言いつけを守って、するっと生まれて来てくれました。逢ってきましたか?彪仁さん…」
「ああ。伊織によく似てかわいかったよ」
「ふふ…男の子だから、これから彪仁さんに似てくると思います。でも、私も自分に似てるって思いました」
彪仁と話していたい伊織だが、やはり疲れが表情に滲む。
「伊織、眠れ。疲れただろう?ずっとここにいるから、心配しなくていい」
「………ほんとう、ですか?」
きゅっと彪仁の手を握り、そのまま伊織は落ちていく。
「おやすみ、伊織。お疲れさん」
こうして橘に、彪翔が新たな家族となった。
最初のコメントを投稿しよう!