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秋の実りが虹彩に、味蕾に季節を知らせてくれる。手の中のずっしりとした柿を〝テスタロッサ〟と名付けた馬の鼻先に近付けると、彼女は音を立てながら嬉しげにそれを食べた。馬は警戒心が強いので見知らぬ食べ物はなかなか口にしないのだが、テスタロッサは幼い頃より柿を好物にしていたので、すこしでも柿を目の前にちらつかせると際限なく食べたがった。もう一つ、と強請るような仕草を手で制し、なだらかな首を撫でる。指を滑らせると、月毛の真っ白い光沢が波打ってきらきらと光った。
「ベルリネッタ!」
私は厩舎の近くで尾を振っていたもう一頭の馬を呼び寄せ、同じように柿を与えた。ベルリネッタは亜麻色のやわらかい栗毛を湛えた雌馬で、額から鼻筋にかけて流星と呼ばれる純白のマーキングが生じている。彼女はテスタロッサよりもさらにのんびりとした質で、大抵の時間は厩舎の傍で風を嗅いで過ごしている。
樒ヶ原乗馬センターという小さな乗馬施設を経営している私が有している馬は、この二頭だけである。それと大型犬が数頭、施設内で自由に遊んでいる。センターと銘打つにはいささか寂しい様相だが、それでも馬も犬もみな穏やかな性格をしているため、親子連れでやってくる客ばかりのここではむしろちょうど良いくらいだった。
しかし、二頭の馬ももう若くはない。彼女らが生を全うしたとき、私は樒ヶ原乗馬センターの長い歴史に幕を下ろす。
その夜、私は寝付けずに卓上の写真立てを眺めながらウイスキーを傾けていた。鋭く冷たい風が窓枠を忙しなく揺らしている。ずいぶん冷え込んだ夜で、これでは馬たちも寒かろうと厩舎を覗きに行くことにした。ブランケットを羽織って玄関の戸を開けると、暖炉の前で寛いでいた犬たちも得意げな顔で着いて来ようとする。護衛のつもりだろうか。大きなゴールデンレトリバーが三頭、尾を揺らして私を先導する。犬たちは馬とも仲が良い。夜中の散歩も冒険めいていてうれしいのかもしれない。
乗馬センターの脇に建てたロッジ風の住居から厩舎までは少し距離がある。昼間はからりと晴れていたのに、まるで雪でも交じりそうな冷気だ。突風にうねる前髪を押さえながら歩いていると、内の一頭が突如走り出した。するりと手からリードが離れる。
「こら、シエナ!」
あっという間に夜闇に溶け込んでしまった金毛を追い、走る。
「シエナ、待ちなさい!」
好奇心旺盛な性格をした犬だ。柵はしてあるが、もしも万が一にでも敷地を出て車道にでも出てしまったらといやな想像が巡ってしまい、肝が潰れそうになる。リードを付けている時に走り出すことは今までになかったので、気が動転している。何度か転びながら名前を呼びつつ全力で駆けると、シエナは厩舎の傍で立ち止まっていた。
「よかった……っ。勝手に走ってはだめだよ」
追いついた私と二頭を見上げてシエナは鼻を鳴らした。しきりに厩舎の方を気にしている。地面に垂れた泥だらけのリードを握り直し、私は厩舎を覗き込んだ。
テスタロッサは立ったまま眠っている。ベルリネッタはテスタという哨戒役がいるからか、安心しきって藁の上に体を横たえていた。そして、横たわるベルリの背に寄り添うようにして、青年が寝息を立てていた。ぎょっとする。
「あの……、」
不法侵入者にどう声をかけていいのか分からず、手を伸ばしては引っ込める。青年はまだ若い。二十代にさしかかるかどうかという顔立ちをしている。閉じた睫毛はぴくりとも動かない。困りあぐねていると、背後に控えていたシエナが痺れを切らしたように青年に近寄り、その頬を舐めた。
「ウ……、」
死んだように閉じていた睫毛がわななく。呼吸を開始する。覚醒して見えた虹彩は不思議な色をしていた。赤黒い。闇と夕陽がマーブルに溶け合うような、そんな色をしていた。
「……、犬」
青年はされるがままに舐められながら、私を見上げた。藁の筋が残る頬にはそれとは別に、引き攣れたような痕があった。縫合の痕だ。ずいぶん大きな傷痕に、私はビクリと目を背けてしまった。
「ここは……、私有地ですよ。きみは」
そろりと視線を戻すと、青年は慈しむようにシエナの首をくすぐっていた。
「僕は、フランケン」
それが名前なのか、それとも彼という概念そのものなのか、私は首を傾げるばかりだった。
* * *
「シエナ、ビスク、……アポロ」
「違うよ。こっちがビスク。毛が他の子よりもくすんだ色をしている」
「そっか。ごめんね」
声をかけられた双子の二頭はぺたんと両の耳を伏せ、気にしていない素振りで目を細めた。
三頭の犬を前にして名前当てをしているのは、鞦だ。厩舎で眠っているところを拾って一週間になる。彼にいくら名前を尋ねても〝フランケン〟としか答えないので、私が勝手に鞦と名付けた。鞦という馬具が訓読みで〝ふらんに〟と読む事を知っていたのでそう提案すると、青年はよく分かっていないような顔で頷いた。
鞦は素性が知れるものを何一つ持っていなかった。それどころか財布すら持っておらず腹を空かせているようだったので、不法侵入の件は一旦保留にすることにして、臆する彼を住居へと招いた。どれくらい空腹で過ごしていたのか分からないので簡単なシチューを作ってやると、彼は美味そうに一気に飲み干した。ぬるい温度にしておいて良かったと、向かいに座って観察しながらひそかに思った。
得体の知れない青年を通報することもなくともに住まわせているのには、後ろ暗い理由がある。私は以前、恋人を自死で亡くしていた。時折きつい酒を煽りながら眺める写真立てに閉じ込められた人物こそが、私のこころを雁字搦めにしている張本人だ。
列車に飛び込んで、恋人――――巣瀬圭介は死んだ。もう八年も前のこと、私が二十七歳の頃のはなしだ。身寄りのなかった巣瀬の身元確認は私が引き受けた。顔面には大きな裂傷があったが、火葬前には綺麗に縫合されていたことを鮮明に覚えている。まるで線路のように皮膚を這う、あの縫合の痕……、それと同じものが、鞦の顔にもある。
「いいこ」
彼は頬を緩ませて犬を撫でた。繊細で優しい指。犬たちは鞦にずいぶん懐いていた。中でもシエナはとりわけ懐いており、毎晩鞦の傍で寝ている。鮮やかなキルトにくるまって互いの背中を守りあいながら眠る彼らは、ひとつの生き物のように完成されていた。シエナは捨て犬だった。きっと鞦とシエナは、どこかで落っことしてしまった魂を共有して補完しあっている。私にはそう見えた。
じっと見詰める胡乱な視線に気付いたのか、鞦が不安そうに眉根を寄せる。
「なんでもないよ。……そろそろセンターを閉めようか。馬を厩舎に繋いで来てくれる?」
彼に些細な仕事を頼むと、鞦は無表情ながらにうれしがった。素性も教えないまま居候をしている立場を申し訳なく思っているのではと勘ぐっている。
鞦はいそいそと支度を始めた。靴下に小さな孔が開いていたが、それにも気が付いていないようで小さな笑いが零れた。ばたばたとシエナも鞦の後を追い駆ける。
「巣瀬!」
大声で呼び止めてから、はっと口を手で覆った。
いま、私はなんと呼んだ。鞦はびくりと立ち止まり、困惑したように縋る目をしている。シエナが不思議そうに私と鞦の間で視線を巡らせ、ぴんと張り詰めた妙な空気に鼻を高く鳴らした。
「す、すまない。……間違えた」
あまりにも稚拙な弁明に、鞦は微動だにしない。何を感じているだろう、彼はひそかに瞳を揺らしていた。逡巡している。想いが切迫しすぎるあまり泣き出してしまう子供のような格好だ。ぐ、と手を握り、また弛緩して今度はシャツの裾を掴む。
「……なんでもないんだ、鞦。気をつけて行ってきなさい」
軽く肩を押すと、鞦は少々未練がましい瞳の揺らぎを残しながら、従順に頷いて踵を返した。鞦、と今度はきちんと彼の名前を呼ぶ。私が名付けた名を。おずおずと振り返る彼のフランネルシャツの上にスタッフ用のまっ赤なジャンパーをかけた。
「夕方は冷えるから」
もう一度頷いて、鞦はシエナとともにロッジから出て行った。
(もしかしたら鞦は……)
巣瀬圭介なのだろうか。顔立ちはあまり似ていないように思えるが、圭介が二十歳くらいの頃は鞦のような顔をしていたと想像してみると、あんがい納得がいくような気もする。
私は鞦に、かつての恋人を重ねている。確かめることもせず、彼に何も説明せず胸の中に秘めたうす昏い感情をひた隠しにして傍に置いている。優しくしている。彼に素性を尋ねることなど容易い。にも拘わらず何も知ろうとしない私こそ、鞦よりよほど不明朗で疑わしい。
しかし、私はバラバラにはじけ飛んだ巣瀬の遺体を見ている。夕焼けと闇が混じり合う時間に警察から電話をもらって市立病院に車を飛ばしたことも、生々しい裂傷も、冷たいゴムの塊のような皮膚の感触も、あれらの悪夢はすべて現実だった。現実だったのだ。私はそれを、片時も忘れることなく写真立ての中に、こころの中にいつまでも刻みつけて生きている。
なかなか鞦が帰ってこないので心配になって外へ出た。風がびゅうと暴れる。山際に造られたために風がうねって、強風をもたらす地形をしている。施設と山の間に暴風植栽を施したこともあったのだが、代わりに猪や熊が人里の境界を誤っては山から降りてきて、過去には馬にまで被害が及んだ実例がある。施設が出来て間もない、先々代に起きた悲劇だ。それ以来、ブナの代わりに樒を植えた。樒は葉や実にいたるまで、そのすべてに毒が含まれている。勘の良い野生動物は本能で樒を避ける。樒ヶ原乗馬センターという名称は、そのとき初めて付けられた。一帯を覆う、病的なまでに生い茂る樒の密林から肖肖り命名されたのだと容易に想像が付く。本来、この施設は〝巣瀬乗馬センター〟という名称を冠していた。
私は、巣瀬圭介という若きオーナーを亡くした乗馬センターを、馬も犬も、思い出ごとそっくりそのまま継いだのだった。
「鞦」
厩舎でぼんやりと立ち尽くしていた彼に声をかけると、びくりと肩を揺らした。
「風邪を引くぞ。何か問題でもあったか?」
馬は二頭とも繋がれている。仕事は終わっていた。
「……、ヨウ」
心臓が跳ねる。感情を映していない鞦の瞳が、私の見開かれた眼を射貫く。
曜。私の名前。鞦に教えていない名前。巣瀬が知っていた名前。
「……鞦?」
恐る恐る手を伸ばすと、鞦ははっと唇を開き、そしてわななかせた。閉じる。瞳を逸らす。理解のできないことばを投げつけられているというふうに、大いに混乱しては頬の傷を爪で搔いている。
鞦、鞦、と何度も名前を呼びながら頬を傷付ける手を握り、細い体を抱き締めた。怯えて震える体を力一杯抱くと、やがて震えは収まり私の腕の中で深い呼吸を繰り返した。
「ごめ、なさい……っ」
わけのわからないこころの渦に掻き乱されて涙を流す鞦は、蘇った巣瀬の魂を持った化け物だ。この世に存在するはずのない、魔の住人だ。私は確信した。彼の魂は、不完全ながらもこの樒ヶ原に舞い戻ったのだ。
* * *
暖炉が燃える。鞦はナイフを握る。しゃり、しゃり、という小気味の良い音と薪が爆ぜる音。まっ赤な炎の揺らぎが舐める真剣な横顔を、私は眺めている。
「これくらいで……いいかな」
おずおずと差し出してきた〝作品〟を検分し、頷いた。
「上出来だよ。上手いじゃないか、鞦」
褒めると、彼は困ったように瞳を逸らした。哀しそうなその表情は困惑の色を映している。照れ方を知らずにひたすら困惑し続ける鞦を、私は哀れに思った。
鞦は大きな南瓜にナイフで模様を付けている。毎年、センターではハロウィンに近くの幼稚園の園児らを招いて催し物をする。それも巣瀬圭介の残した習わしだった。南瓜を飾り、簡単な仮装をさせた馬や犬と触れ合ってもらうだけの些細な催しだが想像以上に好評で、喜ばしいことに親御さんの中にはこれを切っ掛けに乗馬にのめり込む者もいた。馬とともに風と一体化する心地よさを体感して貰いたい、そして動物を愛するこころを養って貰いたいという純粋な願いから企画されたのだろうが、結果的にはセンターの宣伝にも繋がるのだから巣瀬の経営センスはなかなか良かったのだろう。彼が自死した理由のひとつにこの施設を挙げる者もいるが、私はそうは思わない。結局、恋人として寄り添っていたくせに私は彼のことを何も知らなかった。同性の恋人がいると陰口を叩く者もいたというが、正確なところは分からない。それが自死の理由ならば、巣瀬の死の責任はこの私にある。私も巣瀬も、互いに何も話し合わなかった。ただ隣で呼吸を重ねるだけで満足していた。恋人と称するには曖昧すぎる関係だった。恋のまま愛に発展し損ねた末に巣瀬は死に、私は広大な乗馬センターで彼の遺した形跡をふらふらとなぞっている。まるで私こそがハロウィンの亡霊だ。ハロウィンは本来、ドルイド信仰では生贄儀式だった。私は巣瀬の命を贄として、この美しい生活を手に入れたのだろうか?
「……いっ、」
熱心にナイフを操っていた鞦が、ふいに小さな声を上げた。
「切ったのか、大丈夫か?」
「ん……、」
怒られると思ったのだろうか、鞦は泣き出しそうな顔で手を隠してしまった。
「見せてみなさい。消毒をしないと」
立ち上がって彼の前に跪く。手を取って見てみると、傷はたいしたことないようで安心した。ほっと息を吐くと鞦は不思議そうに眉をひそめ、困惑を隠さず表情に乗せた。鞦は私より背が小さいので、こうして見上げるなんて、おもえばはじめてだった。顔の傷痕を隠すように伸ばされた長い前髪の下で、彼はきっと泣きそうな瞳をしているに違いない。私の一挙一動、そして己のなすことすべてを怖がっている。ここから追い出されると思っている。厩舎で赤子のように丸まり、ベルリネッタに寄り添っていた姿を思い出す。
「だいじょうぶだよ、鞦。怖がらなくてもいい。ほら、シエナも心配している。心配しているんだよ、私は……」
血の滲む手を両手で包み込んだ。炎の翳を受けてゆらめく瞳が、傍らに控えて鼻を鳴らしているシエナを捉える。強ばっていた顔がふっと緩む。あどけない少年めいた、あるいは底抜けの稚気さえ感じる素の表情に胸が詰まる。
「あり、がとう……」
鞦は視線を戻し、そのときはじめて笑顔を見せた。ぎこちない、頬が引き攣れたようなかすかな筋肉の収縮に過ぎない表情の変化ではあったが、私はその笑顔に一瞬で心を奪われた。押し黙る私を不思議そうに見下ろし、鞦はまた頬の筋肉を引き攣らせる。その笑い方は、巣瀬の笑顔によく似ていた。からだの力が抜ける。一瞬、この乗馬センターを引き継ぎ、温かい生活を送っていることを勝手に赦されたような気になってしまったのだ。呆けたように鞦を見上げ、じわじわと眼球を満たしていく涙をうつむいて零した。鞦から放たれる静物的なきらめきを、垂れた頭のつむじから私は一身に浴びていた。
* * *
鞦が細工を施した南瓜たちが施設を彩り始めたころ、ぎこちないながらも不思議にしっくりとくる共同生活に私たちもずいぶんと慣れていた。今夜はハロウィンナイトだ。樒ヶ原を燃やす夕陽が落ちきれば、やがて小さなお化けたちが菓子と動物を目当てに列を成すだろう。
鞦は熱心に動物の世話をしてくれていて、繊細なこころを持つ馬たちも鞦を背に乗せて走りたがった。特にベルリは毎朝ブラシで体を擦ってもらうのを心待ちにしているようであったし、少々神経質なきらいのあるテスタも鞦の傍では体を横たえて昼寝をするほどであった。
そしてかくいう私も、鞦の弛みない懐の広さに、ひそやかにこころを癒やされていた。思えば最近、写真立てを眺めては酒を傾ける時間もかなり減ったように思う。鞦は何も変わらない。ただあるがままに私の傍にいて、何も言わず、何も聞かずに巣瀬の遺した動物たちを愛し、乗馬センターのために働いていた。
「南瓜……、並んだね」
キャップのつばを指で押し上げ、満足げにハロウィン飾りを見回す鞦の口元は緩んでいる。センターの玄関には鞦が丹念に細工をした南瓜が並び、屋外馬場の連綿と連なる柵には等間隔にランタンが灯っていた。私も手伝いこそしたものの、そのほとんどの構想や配置は鞦の手腕によるものだ。しずかに瞳を輝かせる鞦の隣に並び、同じようにひとつひとつの飾りを眺めては笑んだ。
「いつもは私ひとりでしていたから、今年は見違えたように豪華だね。すごいよ、鞦。がんばったね」
「……ん、」
「子供たちも喜ぶよ」
照れてキャップを目深に被ってしまった鞦の表情がふいに曇った。ああ、と私は息を漏らす。鞦は、顔の傷が子供たちを怖がらせるのではと危惧して、昼間はセンターの工房で人目を憚りひたすら革細工を裁縫している。私が接客の合間に窓から覗くとよく目が合い、ばつが悪そうにしていた。彼も本当は、子供を乗せて優雅に闊歩する馬を牽引して歩きたいのだ。
「でも、僕は……」
「だいじょうぶだよ。きみの姿も目立たない。その傷も目の色も、誰も気にしない。今夜はそういう夜なんだよ」
迫る闇を照らす、小さな灯りが遠くから灯籠のように流れてくる。低い位置と、高い位置で狐火が連なる。親子が手にしたランタンだ。逸るこころと比例してゆらゆらと落ち着きなく揺れている。
「そういう夜なんだ」
頭を撫でると、鞦はしばらくしてようやく頷いた。悩み悩んだ末の決心が窺える。人前で傷を晒すことを決めたようだった。鞦のこころの優しさは、誰の目に見ても明らかだ。大きな傷ごときではその優しさは曇らない。私はそれを教えたかった。
子供の歓喜の声が夜を明るく照らしている。背上ではしゃぐ親子を慈しみながらテスタロッサが歩き、マントを羽織った鞦が手綱を牽いている。しゃんと背筋が伸び、前を見据えて愉しげに夜風を嗅いでいる。
おっかなびっくり手を伸ばす子供の頬をアポロが舐めると、また賑やかな歓声が上がった。シエナは遠くで綱を引いて親子を先導する鞦を時折見やり、安心したように目尻を下げて尾を振る。私もベルリを牽引しながら、気付くと歯を見せて笑っていた。今年は鞦という優秀な家族がいるので、例年よりずっと楽しむことができた。こころの底から笑った。歓声がどこまでも魔の夜に響き、蛍めいたランタンの灯火が飽くことなく闇を煌めかせた。
「鞦、楽しいかい?」
すれ違いざまに問うと、鞦は大きく破顔した。眉尻が下がって、こそばゆい仕草で大きな犬歯を見せる。細められた瞳がそこかしこで光るランタンに照らされて、黄金の夕焼け色に彩られていた。
たのしい、と唇で語る鞦が私の横を通り過ぎて、その後ろ姿が幼子たちに囲まれてようやく、私は胸に広がる慈愛にとめどなく涙を流した。
鞦は私のことを知らない。私も鞦のことを知らない。巣瀬が死んだ理由も知らない。鞦は自身の魂のかたちさえ知らない。それでも私はかつてこの広大な樒ヶ原で巣瀬が動物たちを愛し、慈しんでいたことを知っている。彼の魂のかたちを知っている。そして鞦がその魂を継承していることも。
私はきっと鞦を、巣瀬と同様に愛するだろう。巣瀬の魂として、そして新たにこの場所で出逢った不可解で愛おしい、ただひとりの〝鞦〟として。
小さなお化けたちが手を振りながら順番に帰って行き、残された私たちはせっかくの飾りを外してしまうのが惜しくて、月夜の中で平素のベルリネッタに倣って風の香りを嗅いでいた。
「鞦、乗るかい。私が牽いてあげよう」
ベルリを指さすと、間髪に入れずに頷いた。無愛想に見えるが、その実、彼がとてつもなく喜んでいることが私には分かった。頷き返しながらベルリに合図をすると、彼女も意図を理解してじっと鞦の動向を見守った。鞍に体を安定させると、テスタが羨ましそうに鼻を蠢かせる。
「……テスタはシエナたちとお留守番」
器用に重心を取りながら鞦はテスタに手を伸ばした。彼女は渋々といったていで何度か足踏みをする。
「鞦。少し歩いたら次はテスタに乗ってやってくれ」
苦笑しながら提案すると、鞦も小さく声を漏らして笑った。めずらしい、と思い顔を覗くと、はっと口を閉ざしてそっぽを向いてしまった。照れている。
夜風は冷たいけれど、気持ちが良かった。歓声に煽られて高揚した気持ちを少しずつ宥めてくれる。ベルリの誇らしげな蹄の音。ゆったりと上下する鞦のからだが月のシルエットを黒々と切り取っている。
「疲れてはいないか?」
声をかけると、相変わらず律儀に頷く。そうか、と返して手綱を握り直した。
「鞦は……、いつまでここにいる? いられるんだ?」
どうしてそんな事を聞いたのか、私にもわからない。ただ、いつまでも彼との生活が続くとは思えなかった。彼はきっと魔の存在だ。生きている人間ではない。ハロウィンの起源であるドルイド信仰では、秋と冬を区切る死の時期に我が家へと帰還する霊魂の存在が認められていたと言う。連なるランタンの灯りは、魂の灯火だ。死した魂たちはみな、懐かしく愛おしい生家へと還りたがるのだ。そしてハロウィンが終わってしまえば――……。
鞦は理解できていないのか、申し訳なさそうに首を傾げた。知らないのならば、それでいいのかもしれない。
「……いいや、なんでもないよ。鞦」
不安げに振り返る彼の瞳が、遠くのテスタを捉えた。私も足を止めて同じように振り返る。月光に照らされたテスタロッサの月毛がぴかぴかと、本当にぴかぴかと宝石のように光るものだから、思わず瞳を閉じてしまった。次に瞼を開いたとき、もしも鞦がいなかったらと内心慌てたが、鞦は変わらずベルリネッタの上で背筋を伸ばしていて、真っ白い月の光を浴びながら眩しそうに瞳を細めていた。
魔でも、人でもいい。私は鞦と、鞦の魂の還る場所を護っていきたいと、樒のさざめく葉音を聴きながら願っていた。
翌朝、鞦の姿はどこにもなかった。彼が使っていたベッドの上で、まだあたたかさの残るキルトに包まりながらシエナが何度も遠吠えをしていた。私は特に驚きもせず、彼の痕跡をたどってセンター中を歩いた。厩舎の藁は綺麗なものに交換されていた。ベルリもテスタも変わらずそこにいて、けれどどこか寂しげな瞳で遠くの風を何度も嗅いでいた。
私のささやかな巡礼に同行する犬たちも、時折立ち止まっては鞦の痕跡を探しているようだった。彼が日中籠もりっぱなしだった工房も覗いてみたが、やはり鞦はどこにもいない。融けてしまった。消えてしまった。ただ、工房の作業机の上に革で仕立てられた作りかけの犬用の首輪が置いてあって私を驚かせた。真鍮を叩いて作ったチャームには犬の名前がそれぞれ彫られていて、早速それを同行者の首に巻いてやると、微妙に革色の違う首輪は彼らの毛色に上手く馴染んで、鞦が色合いを腐心しながら誂えたのだと想像した。
「似合っているぞ」
頭を撫でると、チャームが昨夜の月のように輝いた。
トレッキングコースまでも巡ったがそれ以上の痕跡は見つからなかった。住居に戻り、いつものように彼が好きだったシチューを作って、暖炉に火を灯して読書をした。鞦がやってくる前の、日常だ。一週間とすこし、彼とともにいたけれど、ずいぶんと長く一緒に居たような気がした。錯覚だろうか。巣瀬と過ごした年月と混同しているのだろうか。
薪が弾ける。犬たちは玄関のドアベルが鳴るのを、今か今かと待っている。
「……シエナ」
鞦を我が子のように可愛がっていたシエナを呼ぶと、哀しそうな瞳が私を見上げた。ぐっと胸が詰まる。
「鞦は、……還ってしまったな」
きゅん、と大きな鼻を鳴らして返事をするシエナの頭を撫で、首に手を回してあたたかなからだを抱き締めた。まだ鞦の痕跡が残っているとしたら、彼女しかいないと思った。
「おまえは、……おまえと鞦は、」
魂を共有しあっていた。どこか一部の欠けてしまった寂しい魂を補い合うように、シエナと鞦はいつでも寄り添っていたのだから。
抱き締めたからだからどくんどくんと鼓動が聞こえてきて、私はその生命のうねりが鞦からの労りのように思えて、犬たちしかいないのを好いことにわんわんと大声を上げて泣いた。私はもう一度、鞦に会いたい。彼がまだ知らない食べ物を、彼が知らない愛を、知らない生活を、喜びを、また与えたいと思ってやまなかった。
来年、またランタンの灯火が灯るころ、私はきっと厩舎でフランケンの里帰りを待つ。巣瀬の遺したこの場所で待ち続けるのだ。
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