指導ペア

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指導ペア

 「片桐チーフ、見積書作成出来ました。見てもらえますか?」 少し緊張しながら、昨日から作っていた見積書を片桐チーフに手渡した。冷たげな眼差しに見えるのは鋭い眼差しのせいなんだろうか。俯いた視線の先の書類をめくる片桐チーフの指は、ハッとするほど綺麗で長かった。 それにしても待っている時間が長く感じるのは、僕の仕事への自信の無さなのか、それともまた厳しい事を片桐チーフに言われるかもしれないと身構えているからなのだろうか。  ふいに顔を上げた片桐チーフが僕を見つめて書類に指を差した。 「ここの数字、もう少し詰められるんじゃないか?どこか数字が甘いはずだ。多分この経費に余計なものが積算されてる筈だ。見積もりごとにしっかり経費の詳細を積み上げろっていつも言っているだろう?…もう一度。」 僕は昨日残業しながら迷った箇所で引っ掛かった事にがっかりして、思わず言った。 「…残業している時に、入れるのかどうなのか迷ったものがありました。あれが要らなかったんでしょうか。」  すると片桐チーフは僕の方へ椅子を回して、じっと見つめて厳しい声で言った。 「残業したのか?三登はこの会社のルールを守れない様だな。…分からない頭で残業しても今の様に無駄骨なだけだ。出来るだけ業務時間内に終わらせる様に。そうでないと判断できない箇所を聞けないだろう?」 僕は少し項垂れて小さな声で返事をするのに精一杯だった。少し離れた自分の席に戻ってため息と共にPCを立ち上げると、ハッとしてもう一度慌てて書類を手に、こちらを呆れた様に見つめる片桐チーフのところまで戻った。  小言混じりながら見積もりの必要項目の確認を片桐チーフと済ませるとやれやれと自席に戻った。あとは訂正して仕切り直しだ。隣の席の一つ上の清水先輩が、PC画面から目を離さずに僕に話しかけてきた。 「またやられたな。ひと通り覚えるまでは誰でも通る道だけどなぁ、よりにもよって指導ペアが片桐チーフとは、三登もついてないな。でも普通はチーフがペアにはならないんだけどな。」 そう言って同情的な眼差しを僕に向けてきた。僕は苦笑して、残り2ヶ月の指導が果てしなく長い気がしてため息をついた。  人材派遣会社のこの会社は、最近はコンサルの様な仕事も請け負っていて、僕はそちらの新規事業に2年目に配属になった。一年目に人材派遣の仕事を覚えてようやく慣れたところで、突然の異動になった僕は全然業務の違う仕事内容に、もう一度一年目の様なストレスを感じていた。 僕が配属された先は出世コースだと言う同期もいたけれど、真面目にコツコツ確実にやっていきたい性格の僕には、慣れた仕事の方がよっぽど良かったんだ。  僕の指導ペアになったのは、片桐チーフだった。大抵の指導ペアは入社3、4年目の社員と相場が決まっていたのに、ここは新規事業部門だったせいもあって、直接チーフが指導してくれる事になってしまった。 片桐チーフは会社でも有能と陰で囁かれる人で、同時に厳しい事でも有名だった。だから同期に新規事業へ異動になった事を羨ましがられる一方、指導ペアが片桐チーフだと聞いた途端同情めいた表情を浮かべられるのがオチだった。  ただ同期の女子からは、ある種の羨望の声が掛かった。確かにイケメンに分類されるだろうし、20代後半でチーフを務めるのはスペックの高さゆえだろう。 僕は男が恋愛対象だけど、片桐チーフの様な隙のない、今まで挫折を知らない様なタイプは好みじゃなかった。僕は優し気なアーティストタイプが好みだったからだ。    だからあの日こっそり残業していて、スマホを机に置き去りにしたままトイレに行ってしまった僕は運が悪かったのかもしれない。誰も居なかったせいで、解除して着信を受け取れる様にしていた僕は、やっぱりどこか気が抜けていたんだろう。 僕がオフィスに戻ってきた時に、僕のデスクの側で片桐チーフが何か片手にして立ち尽くしているのを見た時に、ドキンと心臓が嫌な音を立てた。背中に冷たい汗が流れるのを感じながら、片桐チーフの手の中にある僕のスマホを慌てて奪い取った。  残業を良しとされないこの会社で迂闊にもオフィスに残っていたのは僕が悪いし、通信ロックをしないスマホを置き去りにトイレへ行った僕の責任は重いだろう。でも人のスマホを勝手に見てはいけないなんて常識なんじゃないか? そう考えるほど怒りが膨らんできて、僕は思わず片桐チーフに食ってかかっていた。 「片桐さん!どうして人のスマホに触ってるんですか?…非常識です。」 すると片桐チーフは何を考えているのか分からない表情で僕を見つめると言った。  「[ミコト、最高にエロい。]みたいなコメント沢山届いてたぞ。ミコトって、お前なのか?三登。人間の本質なんて表面に見えているものはほんの少しの情報だってのは、こうして見ると真実の様だな。 ぶっちゃけ、俺はミコトのファンなんだ。だから驚いたよ。…お前がミコトだって言うのなら、俺はどうしたら良いのかな。なぁ、三登。」 片桐チーフの眼差しが僕の身体に食い込む様で、僕は目を見開いて息をするのも忘れてしまっていた。
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