夏の終わりに、前を向く

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「早く、上ってこいよ!」 「無理だって! 木登りなんて、したことないんだから」 「そこの枝に足掛けてさ……って律は本当に何にもしたことないよな」 「そ、そんなことないよ!」 「うそだぁ」  樹にからかわれながら、やっとの思いでたどりついた枝の上。  樹が座るのは、僕より一段上の枝。  一週間前に、下から見上げた大けやきの上では、頭上にあるだけだった空が、目の前に広がっていた。  樹と一緒に遊べる最終日。  「俺の好きな場所に案内するよ」そう言って樹が誘ってくれた場所。  最初に会ったときも、空を見てるうちに雨が降りだしたんだって、そう教えてくれた。 「明日、帰るんだろ?」 「うん。朝、迎えが来るから」 「そっかぁ。律と遊ぶの楽しかったなぁ」 「僕も。誘ってくれて、ありがと」  樹にとっては、大したことのない一週間。  僕にとっては、宝物の一週間。 「僕さぁ。逃げてきたんだよね」 「何から?」 「塾」 「塾ぅ? そんなとこ行ってんの?」 「中学受験の為にね。でもさぁ、何の為にやってんのかなって、嫌になって」 「それなら、止めれば?」  樹の、ごく普通の言葉が、僕にとっては当たり前じゃなくて。 「できないよ。お母さんは、絶対に受験するべき! って頑張ってて。そりゃね、きっとやりたくてやってる子もいるよ。でも、僕はそうじゃない」  塾に行くことも、受験することも、全部全部お母さんが決めてきた。  それをここまで反対できなかった僕も悪くて。 「嫌なら、止めればいいのに」 「本当ならね。そうするべきなんだ」 「まぁねー。親の言うことには逆らえねぇよなぁ」 「うん」  逆らえなくて、押し付けられて、結局逃げ出した。  自分で道も決められないくせに、決められた道から逃げた。  嫌で嫌で仕方なくて、塾をさぼって、見かねたお父さんが助け船を出してくれた。  それに甘えるように家を出た僕を、お母さんはため息をついて見送った。  帰ったら、何を言われるかな。  ニゲタ  樹といるときには聞こえなくなってたノイズが、久しぶりに顔を出した。  これは、僕がもう一度始めないと直らないのかな。  動き続けているうちには、聞こえなかったのに。 「樹。一週間、楽しかった」 「俺も」  僕は、この一週間を忘れない。  樹が忘れても、僕は忘れないから。 「また来年、遊ぼうぜ」  来年。  一年も先の話。  約束できない未来。 「今度はさ、逃げたとか言わずに、堂々と遊びにこいよ」  堂々と。  逃げるんじゃなくて。  僕の意思で。 「うん」  田んぼのあぜ道で見た、わたあめみたいな雲は、いつしか姿を消して。  目の前の空には、イワシの大群が列をなす。  夏の終わりの雷雨に、何度体を濡らされただろう。  茜色の空は、これまでよりも少し控えめな太陽を見せる。  太陽が一番輝いた季節が、もう終わる。
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