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なんとか「ごめん」の一言を絞り出した私の腕を、先生は強くつかんで引き留めた。それを振りほどいたのか、離してくれと言ったのかは定かではない。私は気がつくと校舎から飛び出していた。
早く家に帰らなければ。
そう思ったところまでは記憶にある。だが、教室を出てから外に出るまでの記憶がまるでなかった。霧のせいではない。ただ何かを記憶する余裕がないだけだ。
私は学校の駐車場で、自分の自転車を前にしながらポケットの鍵を取ろうとした――その時何かが落ちる音がして、ようやく我に返った。
落ちたのは鍵、ではなかった。
地面にはパラフィン紙に包まれた小さな菓子のようなものが四つ、転がっていた。
こんなものを握っていた記憶はない。包を一つ開いてみると、艶のある暗褐色のキャラメルのようなものが入っていた。
もしかすると、
準備室を出るときに先生が自分の手を取ったのは、この菓子を握らせるためだったのか?
餞別にしては子供騙しすぎる。それに少なくとも先生は、生徒を小馬鹿にするような趣味は持ち合わせていないはずだ。
私は先生の意図がまるで掴めなかった。そのことに次第に苛立ち、いっそ菓子を踏み潰そうと足を上げた。
が、その足は下ろせなかった。結局、黙って菓子を拾い上げ、鞄にそっとしまい込んだ。
なんだよ。なんのために?
理由もわからないまま、ただひたすら自転車をこいで家への道を走り続けたていた。霧は深く、ほんのすぐ先すら見えなかった。
混乱。
それでも霧が晴れたときに、私はこの気持ちをすべて忘れる。
きっと頭が変になりそうなのも今のうちだ。
そう思うといくらか楽だった。
無心でペダルをこぎ続けると、不思議と気持ちが凪いでいく。家はそう遠くない。
帰路、崖下を流れる新井指川の方角で灯りが点っているのを見た。焚火だ。
毎年、霧が始まる頃にああやって川辺で火を焚き、期間中は絶やさずに灯し続けるのがこの地域の習わしだった。霧のせいでここからは見えないが、側には木組みの簡素な神棚を作って、酒だの塩だの、たくさんの御供え物を捧げて、挨拶をするらしい。
誰に? と聞いたことがある。
――川の神様とね。
小さな私に、曾祖母が答えてくれた。
――川の神様と、死んだ人の魂に挨拶するんだよ。
――霧の季節には、死んだ人の魂がこの山に遊びにくるの。神様が呼び戻してくれるんだよ、死んだ人の魂を、人間の世界に。そうやって、死んだ人はつかの間の休息を取るんさ。
――いつか本当に消えるまで。
霧が晴れるまでの数週間、火は絶えることなく燃え続ける。
霧と闇の中で、その灯りは遠くからでもよく見えた。光が散乱しているのか、妙に大きく燃えているように見える。
小さい頃はあの火がひとだまに思えて仕方なかった。
――怖かったな。
昔を思い出しているかぎり、先生のことは思い出さなくて済んだ。家に帰る頃には、幾分すっきりした心地になっていた。
私は普段通りを装いながら夕食を食べて風呂を済ませ、部屋に上がった。
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