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暖房のついていない部屋で、勉強机の棚から表紙の折れた大学ノートを取り出した。今日起こったことを簡潔に書くためだ。この町のみんながそうするように、私もまた、霧の記憶を紙に残していた。その脇には、先生からもらった謎のキャラメルを置いた。
今日の記念品、といえば記念品なのかもしれない。
私はその包を一つ開き、赤茶色の菓子を口に放り込んでみた。
ツン、とした肉桂の辛みが舌を刺激する。
次第に杏仁のような甘さや、木の根のような独特の風味が広がっていった。
美味しく、は、ない。
何の菓子なんだろう。市販ではない。手作り? 先生が?
味わいながら、ノートをぱらぱらとめくる。このノートには、去年や一昨年の記録も残っている。霧の期間のためのノートだった。そのページの途中でふと、私の手が止まる。
まるまる見開き二ページをつかって書かれていた、大きな文字が飛び込んでくる。
〈先生は死んだ〉
その六文字を私はしばらく凝視した。
死んだ?
今日私は先生に会ったばかりだ。
その文字は、去年の霧と一昨年の霧、一昨年の霧とその前の間にも書いてあった。
先生は死んだ。
先生は死んだ。
先生は死んだ――。
霧に入る前の私が、霧の中の私になにか警告をしたがっているようにも思える。
しかし私にとってその文字列は、こめかみをかすめて後ろへ飛んでいくような感覚で、意味になる前に消えてしまった。何者かが――死と先生とを結びつけようとする私の思考を、妨げているような気すらした。
私はそのページを飛ばして白紙の場所を開くと、今日の日付と、先生に恋を告白した結果をごく簡単な言葉で書き記した。その間も、なぜか先生は死んだ、の文字が頭を離れなかった。口の中のキャラメルが、用心しろ、と言っている気がして仕方がない。
書き終えたノートを元通りにしまい、部屋の明かりを消し、布団をかぶった。
目を瞑る。
――真木くん。
先生の声、紅茶の匂い、煙草の煙、すべてがよみがえってくる。
先生、
先生は死んでなんかいない。
今日のこの記憶はたしかに私の脳裏に刻まれたものだ。この痛み、未練、涙も含めて確かな私の体験だ。
先生と私の、生きた記憶だ。
本当に?
頭まですっぽりと布団に隠してしまうと、暗くて温かくて、いつか、こんな暗い場所を揺蕩っていた時があった、そう感じた。
いつだっただろうか。思い出せない。ただその暗闇の中で、なぜだか冷たい先生の死体が隣に横たわっているような気がしていた。
口の中には薬くさいキャラメルの味が残っている。
私はいつになっても眠れなかった。
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