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自転車に乗って、霧の夜道を行く。
あてはない。
濃い闇をたたえた森、刈り込まれて裸になった田んぼ、そういったものが霧に包まれ沈黙している。空気はわずかに湿っていて、濡れた土とアスファルトの匂いが充満していた。その間を、ギイギイと音を立ててただ走った。
霧は随分と薄くなった。
この分だと、明日か明後日には晴れるだろう。
また、いつもの日々が始まる。学校に行き、受験勉強に励み、模試を重ねて入試に挑む。
それだけだ。
私は急に、この世界の中でただ一人暗いところに放り出されたしまったような気がした。
こんなふうに生きていったって、全てなんの意味もないんじゃないか。
自転車を漕ぐ足の力が失せていく。道はずっと向こうで暗闇に消えている。私に行き場がないことを、道が通告しているようにすら思える。
先生さえ。
先生さえここにいれば。
先生から受けた口づけがよみがえってくる。もう何もいらないから、先生が欲しい。今はそれだけが私の中の光、人生の意味に感じられた。
そのあまりに強烈な欲望が私の頭をぐちゃぐちゃにしていくそのさなか、
コツン、と何かが車輪に当たる感触があった。
あっ、
と思った時には遅かった。車輪は石に取られ、自転車に振り回されるようにして私の身体は大きく傾き、そのまま道端の暗い用水路へと投げ出された。
上から大きな音を立てて自転車が覆いかぶさってくる。
押しのけようと力を入れた途端、グリップか何かが私の頭を水中に押さえつけた。
ゴボゴボという音が聞こえる。自分が水を飲み込む音だ。
水。
水が私の中に入ってくる。
動けば動くほどに自転車が私の身体を封じていく。
ごぼ、ごぼ、
身体の中の空気が抜けていき、
水で満たされていく。
苦しい。
身体中から酸素が抜けていくのを感じながら、それと引き換えに私の思考にかかった霧が晴れていくような感覚を得た。
死んだ。
そうだ、先生は死んだ。
先生は魚子だ。
先生。
先生先生先生。
幽霊でもいいから最後に会いにきて。
願いながら溺れていく。頭の中は変に晴れたまま、死だけが私に近づいていった。
もう手の届く場所に、それがある、そう思った瞬間だった。
「真木くん!」
死に際の幻聴だろうか。先生の声がする。
「真木くん! しっかりしなさい!」
腕が回される。……先生が助けに来てくれたのか?
ああ、ちがう、これは昔の記憶だ。
失われた記憶が、暗闇から次々と浮かび上がってくる。
――真木くん、頼む、目を開けてくれ、
新井指の河原で、冷たくなった私の身体を必死に揺さぶる先生のことを覚えている。あのときはもう、私の魂は川の中にあった。救急車の音。警察。青ざめる人々。
断片的な記憶の洪水に飲まれていく中で、
私は自分の死を思い出した。
冷たい水底に魂は沈み、
そして再び這い出てきたんだ。
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