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「被験者に、ガードレールにぶつかって壊れた車の映像を見せるんです。それから、ある被験者には〈ガードレールにぶつかった車は時速何キロぐらいで走っていたと思いますか〉と聞き、もう一方には、〈ガードレールに激突した車は時速何キロぐらいで走っていたと思いますか〉と聞く。
さらに一週間後、今度は映像を見せずに〈その車のフロントガラスは割れていましたか?〉と尋ねるんです――もちろん、実際にはヒビも入ってません。
でもね、いるんですよ、〈割れていた〉って答える人が。
しかも、ぶつかったと伝えられた方よりも、激突したと言われていた被験者のほうが、そう答える確率が高いんです。なんなら、ガラスが飛散していたと答える人までいた。
言葉をちょっと変えただけなのに、見たはずのないものを見たと思ってしまうんです。そんなにも、記憶って脆くて危ういんですよ。」
「……。」
「それから僕もね、先月調査のために小河へ足を運んだんですよ。いやぁ、自然豊かで良いところですねぇ。紅葉はきれいだし、ローカル線もレトロで味があっていい。あの川沿いを――そうそう、新井指川ですね――そこを走る景色がとても良かったですよ。
で、景色を見ながらね、不意に〈あれ、前もこうしてこの景色を電車から見なかったか?〉っていう瞬間が訪れたんです。ほとんどフラッシュバックみたいな体験です。いわゆるデジャヴュですねぇ。あれもまだ、仕組みがわかってないらしいんですよ。
面白いですねぇ、人間の記憶って」
そこまで言うと、おかわりしたコーヒーを小さくすすった。カップを持つ手の小指が立っている。
「すみません、長々と。いえ、今日は僕ではなく、あなたのお話が聞きたいんです。小河の霧は、なるほどあなたの言うように、そこに住む人間に記憶障害を起こさせるようだ。でもそれだけじゃないんですよね? 現地で聞き込むと、みんな言うんです。〈霧と一緒に死んだ人がかえってくる〉って。」
明道はコーヒーカップを戻し、ぐっと前に出た。
「不思議ですね、」
目を細め、真木の顔を覗き込む。真木はその時、明道の首に薄っすらと、紐を巻き付けた痕のような赤い線をみた。
「霧、記憶、死んだ人。盂蘭盆会に近いものかと思いましたが、そうではない。彼らは魂の帰還をただ信仰しているだけでなく、実際に会っていると言うのです。それも一人ではない。何人も、みな口を揃えて自分は死んだ人に会ったという。
確かに、マタギの方なんかに話を聞くとね、山奥にはそんな不思議な話もたまにあるんです。山で死んだ人の魂に遭遇したとね。でも、こんなに多くの人が一度にそう証言するなんて話は、少なくとも私の知る限りではない。あの土地にだけ、なぜか毎年起こるものなんです。きっとあなたも体験しているはずだ。そうでしょ?」
死んだ人。
真木の脳裏を、ある男の顔がかすめる。
「真木くんも、会ったことがあるんじゃないんですか?」
真木は次第に身体が冷たくなるのを感じた。効きの悪い店の空調のせいではない。奥から湧き上がる寒さが、身体を震わせようとしていた。
死んだ人に会ったことがある。
このことだけは誰にも言わなかった。家族にすらまともに打ち明けてこなかった。だが、真木はその話を誰かにしたいとも思っていた。あまりにも孤独だったからだ。
この男は信頼に値するか?
「……でも……日記に残っていただけです。私の記憶には、一切、残っていないんです」
「それでいいんですよ、」
明道のその顔は真木の内なる問いに確かに答えていた。
「事実がどうだったか――フロントガラスが実際に割れていたかなんてことは、今は置いておきましょう。ただあなたがその記憶に何を思うのか、感じること、信じることを教えてくださればいいんです。僕はそれが知りたい」
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