一.

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  一.

 ひと晩で小河(おごう)の里は霧の中に沈んだ。  まず里を囲むようにして流れる新井指(にいゆび)川から水霧が立ち上り、それが夜のうちに里山全体へと広がっていく。  私は霧の中、慎重に自転車を走らせて山道を下り、母校の中学へと向かっていた。陽は山の裏に沈み、残照が里山を淡く染めていた。  じき中学校が見えてくる。校門を抜け、職員用の駐車場に自転車を停めたあと、大きく息を吸った。  玄関に植えられた金木犀の甘い香りと、湿った土の匂いがまじる。  学校は昨日からに入った。  私にとって十八回目の霧。  子供の時分こそ、霧が去った瞬間に消し飛ぶ記憶のことを不思議に思ったものの、もうこの年にもなると慣れたものである。  私は今年の霧の季節にある計画を立てていた。  今年を逃したら、あとはない。  校舎を迂回して、理科準備室の窓から中を覗く。 ――イスカ先生。  藍色のほの暗い部屋の中で、彼の着る黒いジャージのラインがはっきりと浮かび上がる。  身をかがめ、机の上の資料を読んでいるところだったらしい。電気はついていないが、オレンジ色の小さなランプの光が机のあたりで灯っていた。その周りには物が乱雑に積まれている。  私は怯えを悟られないように、慎重に窓を二度叩いた。  先生かふっと顔を上げ、こちらを見た。その顔がみるみるほころんでいくのを見て、私の胸の中に温かな明かりが灯った。先生は立ち上がり、窓をあけた。 「真木くん。」 「イスカ先生。部活終わった?」 「終わった? じゃないよ、まったく、また来たのか。いつまで卒業生の顔でここにくるんだ。そんなに私が恋しいかい。ほら、寒いから入っておいで」  先生はいつものように私を準備室へ招き入れた。部屋はアルコールの燃える匂いと、なにか果物のような甘い匂いがした。 「部活も終わったさ。知ってて来たんだろう、」  その通りだった。私はイスカ先生の大体の予定を把握していた。彼が顧問を務めるバレー部の練習がいつおわるのか、終わったあとにどこにいるのか――。在校生でもないのに、事細かに。  そうやって、先生が一人の時間をみはからって、わざわざここに来たのだ。  先生は気づいているだろうか? 「仕事してたの?」  私は何食わぬ顔で先生に笑いかけた。イスカ先生はそうだよ、と言いながら近くにあった丸椅子を手で寄せて、私にすすめた。座ってみると、先生の体は一段と大きく見えた。
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