猫の名はシェヘラザード

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 彼女の前世は猫だったのだと思う。黄金の鈴が似合う整った毛並みの白猫。アラベスク模様のソファーに腰掛ける裕福な老紳士が、彼女を膝に乗せて撫でている。その男は架空の存在なのに、彼に無性に嫉妬した。 ◇  「知ってた?猫って人間の3000倍オッドアイになりやすいんだって」 大学生活最後の夏合宿へと向かうバスの道中で、千尋が唐突に話しかけてきた。タイムラインに雑学が流れてきたらしい。つい動揺してしまった。視線を落とした先にスマホの画面をスクロールする千尋の指先があった。長い爪には綺麗なラインストーンが並んでいて、思わず見とれた。  「オッドアイ」という言葉の意味を知ったのは、6歳の夏だった。正式名称を虹彩異色症。左右の瞳の色が違うこと。幼い僕は「そんなの普通じゃないのか?」と思った。僕には、すべての人の目の色が左右で異なって見えていた。母の左目はピンク色。父の右目は赤色。幼稚園の先生の右目は緑色。鏡を見れば、僕の左目は青、右目は黒だった。でも、周りの人にはそうは見えていないのだ。「オッドアイ」が「特別」であることを知るとともに、僕が「普通」でないことを知った。  僕はいわゆる何万人かに一人の割合で存在する「共感覚者」だった。僕の場合は、人間の持つ魂の色が見えた。どちらか片方の瞳だけが、その人の魂を表したような色に見える力。それゆえ道行く人すべてが僕からはオッドアイに見える。  僕は、異端であることに敏感だった。子供の世界は排他的だ。たとえば、母がつけた亜漣(アレン)という名前は変だと笑われた。目立たないように顔を隠そうと髪を伸ばせば、余計に目立ってしまった。せめて内面だけでも、僕は「普通」になりたかった。だから、振る舞いには人一倍気を遣った。  みんなが好きなアニメは僕も好き、みんなが嫌いなものは僕も嫌い。「犬派?猫派?」なんてありふれた質問にも、本当は猫の方が好きだったけれども、その場の多数派に合わせて犬派と答えた。  10年以上経った今でも覚えていることがある。ある日の下校中、女子が公園のベンチに集まっていた。1匹の白猫が日向ぼっこをしていた。それまであの公園で見かけた野良猫は人間が少し近づいただけで警戒して逃げてしまっていたのに、あの猫は何人かに撫でられても逃げずに気持ちよさそうに丸まっていた。きっと、近所で放し飼いにされていた猫だったのだろう。白猫は首に鈴をつけていた。  僕も猫に触りたいと思った。父親のアレルギーを理由に猫を飼えなかったことが一層その気持ちを強くしたのかもしれない。しかし、友達の「猫なんてどうでもいいだろ。早く俺の家でゲームしようぜ」の一言に僕はその場を後にするしかできなかった。あの猫はまだどこかで元気にしているだろうか。  そんな僕が、共感覚者であることをひた隠しにして生きるのは、至極当然のことだった。  幼い子供の世界に比べて、大学という空間は異端者に寛容だ。全国各地から集まった生徒が方言を話す。留学生やだいぶ年上の生徒も少なくない。たとえ髪を緑色や紫色に染めたって迫害されない。僕のサークルは特に、世間では変わり者扱いされる人間の集まりだった。共感覚者であることは打ち明けなかったが、気を張らずに生活できた。  離島出身で今まで出会った中で一番のアニメ好きの吉川と、元々先輩だったけれど一年留年して同学年になったヤマさんと特に仲良くしていた。  髪をこだわりの緑色に染めるお金が無くなって抹茶プリンみたいな髪になっていたヤマさん。普段は口数が少ないくせにアニメを語るときだけ信じられないくらい饒舌になっていた吉川。吉川も推しキャラと同じ色にしたいという理由で紫色に髪を染めていた。まるで蝶みたいにカラフルな髪をした友人と、温室のようなサークルで自由気ままに過ごす日々はとても居心地がよかった。  でも、いつまでも桃源郷にはいられない。色とりどりの蝶たちも、やがて黒いスーツをまとって働き蟻へと擬態する。髪を黒く染め戻して、就活に翻弄される日々が続いた。ある日、リクルートスーツのネクタイを緩めて、部室で吉川が呟いた。 「千尋、外資行くんだってさ」  みんな千尋には一目置いていた。千尋は同期で1番優秀だった。3年生のうちにいち早く、超一流企業の内定をとり、4年生の前期で卒業単位を取り揃えた。僕たちが企業の説明資料を真っ黒な鞄に詰め込んで疲弊している傍ら、就活戦線を一抜けした千尋はカラフルな私服でキャンパスを軽やかに歩いていた。彼女がお気に入りのバッグにつけていた大願成就のお守りについた小さな鈴の音が再び聞こえるようになった。 「海外転勤って楽しそうだよね。ワクワクする」  二年生の頃からそう言っていた千尋が入ったのは若いうちから海外出張がたくさんあるようなグローバル企業。見事に有言実行した。千尋は社会人になったら世界を飛び回るのだろう。  千尋に少し遅れて僕たちも無事内定を取った。就活期間の様々な抑圧から解放された同期の面々は、反動で連日連夜飲み会を楽しんだ。僕たちは、ネバーランドの夢の世界からさめる前の最後の夏を謳歌していた。  僕は千尋のことが好きだった。千尋はキリっとした猫顔の美人だ。目尻の上がった大きな目。すっと通った鼻筋。細く整った眉。細い顎とシャープな輪郭。小さく薄い唇。気づけばいつも千尋を見つめていた。鈴のような声も、全部大好きだった。 最後だからと勇気を出して、千尋の隣の座席を選んだ。なのに、何を話していいか分からなかった。そんな時に千尋から気まぐれに話しかけられるだけで心が踊った。 「白い猫って4匹に1匹がオッドアイなんだって。25%だよ。すごくない?」  猫に関する覚えたばかりの雑学を千尋は無邪気に披露する。 「そうなんだ。もっとレアだと思ってた」 「街中とかじゃ全然見ないもんね。でも、こんなにいっぱいいるんだったら手が届きそう」  千尋は猫好きだ。猫の話をするときの千尋は優しい目をしている。千尋も幼い頃に、僕と同じように猫を飼いたいと言って親に却下されたと以前聞いた。犬を飼っている部員が多く、犬派が圧倒的多数のサークルだけれど、今なら僕も千尋と同じ猫派だと言えるかもしれない。 「実家出たら、猫飼いたいんだ。片方だけ青い目の猫ちゃん」  あまりに飛躍した妄想だけれども、僕は勝手に想い描いてしまう。リビングのソファーで猫を撫でる千尋。そして、ホットミルクを作る僕。僕がミルクを手渡すと、千尋は鈴のような声でお礼を言う。 「いつもありがとう」  僕たちは互いの目を見て笑い合う。そんな僕たちを飼い猫はじっと見ている。猫と千尋はそっくりな目をしている。  千尋の右目は青かった。強い目力を放つ大きな瞳は、空から見下ろした大海原のような色をしていた。22年間生きてきて、魂の色が青く見えたのは千尋だけだ。それが、千尋を目で追うようになったきっかけだった。  彼女は自由だった。河原でバーベキューをすれば、服のまま川に飛び込んだ。 「今から山手線一周歩いてみない?」  そう唐突に提案したのは、代々木公園でフットサルをした日の夜だった。朝早くに集合して一日中遊んで、打ち上げは二次会まで出席して終電間際のその発言にはみんなが驚いた。華奢な体のいったいどこにそんな体力があるのだろう。  千尋を慕う後輩3人と僕が同行したけれど、千尋はきっと1人でも思い付きを決行したと思う。千尋は夜行性なのかもしれない。後輩は1時間もすれば疲れて口数が少なくなっていたが、千尋は元気なままだった。千尋の鞄からはずっと同じリズムの鈴の音が聞こえた。  僕は千尋の感性が好きだった。雑貨屋で一目惚れしたと言って名前も知らないどこかの国の民族楽器を買ってきては、部室で綺麗な音色を奏でた。  彼女は優しい一面もあった。ある日、みんなで遊園地に行ったときに、部員1人が体調を崩した。千尋はずっと彼女の介抱をしていた。誰よりも気遣いができる彼女は、決して誰かを置いてけぼりにしたりしない。  白猫のような気高さが千尋にはあった。千尋は日常の所作が美しかった。老舗の呉服屋令嬢と千尋と同じ高校出身の同期に聞いて、妙に納得した。僕の知らない千尋を知っている人間が羨ましい。千尋のことは知れば知るほど好きになる。千尋のことをもっと知りたい。  目の色を見れば何となくその人がどういう人間か分かる。たとえば、ヤマさんや吉川は父とよく似た濃い赤色だ。彼らの前ではある程度素を出しても大丈夫。  反対に、黄緑色に近い人たちは保守的な考えを持っている。そういう面接官にあたった時は、彼らに好まれるような振る舞いをしてきた。就活が無事終わったのも、共感覚のおかげかもしれない。  22年間フル活用してきた共感覚による処世術も、千尋には通用しなかった。青い色の前例がないので、カテゴライズのしようがない。  合宿所につくと、海に行くために水着に着替えた。男子は脱いで履いて終わりだが、女子はそうはいかない。女子たちは念入りに日焼け止めを塗るものらしい。ビーチバレーボールや浮き輪に空気を入れながら、女子たちの着替えを待った。 「アレン、空気入れておいてくれたんだね。ありがとう」  去年と違う水着を着た千尋に声をかけられた。持っていたボールを手渡す。千尋の日焼け止めは香料が入っていたのか、ほんのりキウイフルーツの香りがした。塗りたての日焼け止めの匂いに眩暈がしそうになったことに、少し罪悪感を覚えた。 ――白い猫って4匹に1匹がオッドアイなんだって。 千尋の白い肌を見ると、さっきの台詞がリフレインした。海辺ではしゃぐ高い声と、脳内に響く甘い声が混ざって、音の波に酔いそうになった。  合宿の夜の大宴会。がやがやとうるさい中で、千尋が僕に囁いた。 「ちょっと、外の風に当たらない?」 突然の誘いに、心臓が壊れそうになった。心なしか猫なで声に聞こえた。僕たちはこっそりと星空の下へと向かった。 「私と今夜だけ恋人になって」 夜風に髪をなびかせながら、千尋が言った。眩暈がした。僕の青い目も黒い目もチカチカした。ドギマギとする僕を見て、千尋はくすりと笑った。 「亜漣、焦りすぎ」 僕をからかう千尋は魔性のペルシャ猫に見えた。酔っている僕に、千尋から与えられる熱は劇薬のようなものだ。千尋が僕の手をひいて歩き出す。滝のような手汗は夏の暑さのせいにしようとしたけれど、言い訳の言葉ひとつ出てこなかった。 「恋人同士っぽいことその1。手をつないでみました」 いたずらっぽく笑う千尋と対照的に、僕は柔らかい手の感触に脳の領域のすべてを支配されていた。昼間に僕を釘づけにしたあの細い指を絡めてくる。周りの景色なんて見る余裕がなかった僕は、浜辺まで来てようやく、宿からだいぶ歩いてきたことに気づいた。 「僕のこと、からかってる?」 「冗談でこんなことしないよ」 ふいに、千尋が僕の頬にキスをした。 「亜漣はキス、初めて?」 「まさか……こんなの挨拶だよ……」 女の子に主導権を握られるのが悔しくて、僕は虚勢を張った。少なくとも千尋とするキスは絶対に挨拶なんかじゃないのに。誘惑するように目を閉じる千尋と唇を重ねた。 「恋人同士っぽいことその2。キスしちゃったね」  秘めた想いを千尋に伝える千載一遇のチャンスだというのに、「好きだ」の一言も言えない。代わりに何度もキスをした。「今夜だけ」の意味なんて知りたくなくて、彼女の唇をふさいだ。  彼女の吐息は、まるで泣いているようだった。見つめ合うたびに、彼女は何かを言おうとしてはやめた。僕を魅了した強い目力を持つ瞳が、悲しみを訴えているように見えた。話す間も与えずに彼女の唇を奪っておいて都合のいい話だけれど、このまま曖昧にすることは僕の良心がとがめた。 「やっぱり、恋人同士だったら、本音で話さないと」 どうして、2人で抜け出そうなんて言ったのか。どうして、一夜だけなのか。よせばいいのに、彼女に問うてしまう。千尋の柔らかい唇が言葉をつむいだ。 「少女でいられる最後の日に恋をしたかったから」  夏の終わりを告げるような冷たい夜風が吹き抜ける。波の音が一瞬消えたように感じた。千尋は語り出す。夢だった企業の内定を親に辞退させられたこと。卒業後に政略結婚させられること。そういう自由のない家庭に育ったこと。サークルの会長にだけ、「内定先の企業に呼び出しをくらった」と嘘をついて、明日の早朝みんなが起きる前に帰ると伝えてあること。二度と家に戻るつもりはないこと。合宿所を出たら、その足で空港に向かうこと。  少女のままで自由になれないのならば、一人で生きるしかない。大人になる決意をした彼女は一足早く夏休みを終える。  飼い殺しにされた少女は、「自由」に向けて必死に手を伸ばしていたのだ。幼い僕が「普通」を渇望していたように。  彼女には時間がないのだから、仕方がないとは分かっていた。現代のお姫様と僕は住む世界が違うのだから。理不尽な境遇へあらがいたくなる気持ちも理解できた。でも、むなしくてしょうがなかった。 「誰でもよかったのかよ」  恋人ごっこの相手は僕じゃなくてもよかったのだ。絡めた指があんなにも愛おしかったのに。夢中になってキスをしていた僕は滑稽な道化師だ。一人で舞い上がって恥ずかしかった。 「僕は本気で千尋のことがずっと好きだったのに」 泣きそうになる。目に潮風がしみる。顔を見られたくなくて、千尋に背を向けた。後ろから、千尋の声がする。 「千夜一夜物語って知ってる?」 「アラビアン・ナイトのこと?」 王妃シェヘラザードがアラビアの王様に毎晩物語を語る。千夜の果てに、王様は愛を知る。そんな話だったと思う。結局僕は、どんなに弄ばれても、気まぐれなお姫様を嫌いになれない。このシリアスな状況で突然、ふざけたおとぎ話の話題をふられたって怒れない。 「シェヘラザードは政略結婚だったけど、私は物語を伝える相手は自分で選ぶよ」 それは、僕を意図的に選んでくれたということだろうか。そんなことを言われたら、僕は単純だから、きっと何度だって勘違いしてしまう。もう一度、期待してもいいのだろうか。 「あるところに、女の子がいました。女の子は青い右目と、黒い左目をしていました」 季節をフライングした鈴虫の声が遠くでかすかに聞こえた。最後の夏が僕たちの手からこぼれ落ちる音をBGMに千尋は語り続ける。 「女の子は、自分と同じ色の目をした男の子を見つけました。その人を運命の人だと思ったのです」 千尋が僕の両手を包みこむように握った。 「千尋、君は……」 「そうだよ。私“も”あるんだ。共感覚」 千尋は無邪気に笑う。 「どうして、僕が共感覚者だって分かったんだ?」 「だって私たちはとても似ているから。同じ目の色なんだもん。だから、亜漣のことが気になって、ずっと見てた。でも、亜漣は他の人と比べて、気持ちが読めなかったの。亜漣は人の感情に敏感で、人の目をよく見てたから、もしかしてって思って。確信したのは今日だけど。オッドアイって言葉に過敏に反応してたから。青って、共感覚者の目の色なのかな。それとも、自由の色なのかな」 千尋は自分の大きな青い瞳を指さした。猫のような大きな瞳に月の光が反射する。それはこのうえなく幻想的だった。 「誰でもよかったわけじゃないよ。亜漣だから、一夜だけでも恋人になりたいって思ったの」 僕は、千尋を強く抱きしめた。腕の中の千尋に何度も「好きだ」と言った。詩的な少女の耳元で、気の利いた愛の言葉をささやきたかったけれどそんな余裕なんてなかった。僕たちには、もうほとんど時間が残されていない。 「恋人同士が次にすること、私はもう、駆け落ちか心中しか知らない」  箱庭のお姫様は、普通の恋を知らない。親に許されない恋物語は続きのページを破られる。 「物語の続きは明日の夜に話すね。もし聞きたかったら、一緒に来て」 僕の腕をすり抜けた千尋が、逃避行を提案する。一足早い鈴虫の求愛のかすかな声はやまない。 「来てくれるよね?だって私たち、同じ色だから」 千尋が僕の手を握った。猫のようなお姫様は、何度でも僕を振り回す。 「あと千夜、恋人でいて」  違う。同じじゃない。僕は千尋のように自由には生きられない。パスポートは?お金は?僕は何も準備してきていない。二人でどうやって生きていく?家族を捨てられるか?僕が失踪したら心配や迷惑をかけてしまうのでは?ずっと好きだった女の子からの愛の告白を前にして、僕は常識という首輪を外すことができない。  僕と千尋は同じではない。千尋は一つ、大きな誤解をしている。僕は、千尋の手を離した。   「青い方が、僕の本当の目の色なんだ」  僕は、日本人の父とイギリス人の母との間に生まれた。日本で生まれて、日本で暮らすのだから、日本人らしい名前をつけてほしかった。一目で外国人と分かってしまう青い目が嫌いだった。色素の薄い髪を何度黒く染めたいと思ったか分からない。平均点がとれない国語の授業が苦痛だった。個性を殺して、周りに溶け込もうと必死だった。  黒い瞳は、僕の中の異端の部分を塗りつぶしたいという願望の表れだ。大海原を求め、自由を選んだ青い瞳の千尋とは、生きていく世界が違う。普通であろうとする僕といる限り、きっと千尋は真の意味で自由にはなれない。 「僕の心は、真っ黒だ。だから、一緒には行けない」 僕は千尋を引き留められない。束縛を嫌う千尋は、人の行動を縛らない。だから、僕を無理矢理連れて行くことはない。僕は可哀想な猫を飼い殺す王様にも、道端の猫を無邪気に追いかける少年にもなれない。 「じゃあ、亜漣の心の色は思い出の色だね。私たちが恋人同士だった夜の色」 僕たちは一夜かぎりの恋を過去形にする。現代のシェヘラザードの語る物語の続きを聞くことは、永遠にない。 「たくさん人の目を見てきたけど、私は亜漣の本当の瞳の色が一番好きだよ」 誰よりも美しい瞳を持つ恋人が、僕の両目の色を肯定してくれた。それだけで僕は生きていける。 「私のこと、忘れないでね」 千尋は振り返らずに歩いてゆく。僕たちは確かに恋人だった。でも、猫は人間に執着しない。僕がいなくても、千尋は幸せになれる。それでも、お姫様気質の君は、君を忘れることを決して許してはくれない。僕はきっと、千尋の面影に執着し続けるのだろう。 夏の朝は早い。空が明るみ始めた。浜辺の足跡は消えない。僕の心に残された足跡も永遠に消えないのだと思う。 昨日の鈴虫の声は幻だったとでも言うように、蝉が求愛の合唱をする。一人きりで合宿所へと歩いた。道中のカーブミラーに映った僕の顔を見る。千尋と僕の瞳の色は、同じではなくて鏡映しだったのだと今更ながら気づいた。  あれから1年、僕は「普通」の社会人をしている。ハーフというステータスは女性受けが良いらしく、時々好意を向けられる。「普通」の男性ならば、デートの1つでもするのだろう。けれども、千尋以外の女性と恋人になる気はさらさらなかった。あれほど「普通」を望んでいた僕が、「特別」な彼女だけの「特別」になりたかったなんて、とんだ矛盾だけれども。  今日の帰り道、塀の上で白い野良猫があくびをしていた。僕に気づいてちらりと一瞥した後は、自由気ままにどこかへと軽やかに走り去っていった。  千尋は今、どこにいるのだろう。僕の母の生まれ故郷のロンドンだろうか。千夜一夜物語の舞台である中東だろうか。いずれにせよ、千尋とはもう逢えないのだと思う。  それでも、千尋と過ごしたあの夜の色の右目と、愛した千尋の魂の色をした左目とともに、僕は何千夜も何万夜も生きていく。大嫌いだった僕の瞳の青を好きだと言ってくれた千尋。黒を平凡な色から僕だけの特別な色に変えてくれた千尋。僕の瞳に物語をくれたシェヘラザード。  彼女は来世、猫に生まれ変わるのだと思う。それならば僕は、君の鈴に生まれ変わりたいと願った。
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