接吻

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今日が日直で、日誌を書くことに手間取ってしまい、気が付いたら結構な時間になってしまっていた。急いで教員室の担任の机の上にそれを置き、教室に戻ろうとすると、階段の踊り場で彼が他の女の子と抱擁し合っているのを目撃してしまった。その子が彼女でもわたしはとやかく言える立場じゃないのに、無性に腹が立ってしまって、彼女に八つ当たってしまいそうな気持ちを抑え、急ぎ足で教室へと戻る。 「……菜都子ちゃん」 教室には、先ほどまでいなかったはずの、いつも遼の周りにいるうちのひとりの男の子がいた。彼は、比較的落ち着いた雰囲気のある格好をしている遼とは違って、高校生という言葉がぴったりの年相応なタイプの男子で、今はいつも以上にその雰囲気を醸し出している。 明らかにわたしがここに来るのを待っていたかのようで、なんだか気味が悪くなってきてしまった。 「どうしたの? 帰宅部の下校時間はもうとっくに過ぎているけれど」 遠くでブラスバンド部が音合わせをやっているようだった。今のこの雰囲気には似合わない、軽快な曲調のものが演奏されている。 「待っていたんだよ、菜都子ちゃんのことを。もう日誌置いてきたんでしょ? おれと一緒に帰ろうよ」 「遼のことなんて忘れてさ、ね?」追加された彼からの言葉に驚く。どうしてわたしが彼と関わりがあることを知っているのか、信じられなかった。 「え、もしかしてビンゴ? なんとなくそうかと思ってはいたけれど、確信はなかったんだよね」 墓穴を掘ってしまった。わたしがもっと冷静を装って対応できていたらと悔やまれたけれど、いまさら何を思っても仕方のないことだ。 「目的は? まさか、今日一緒に帰ることだけじゃないんでしょう?」 「そうだね。例えば、菜都子ちゃんとつき合うこと、とか?」 「……つき合ったら、遼との関係、黙っていてくれる?」 わたしがそう訊くと彼はもちろんだよと言って頷いたので、条件を呑んだ。 そうして、彼……遼とはもう関わらないようにしようと決意した。 もともと連絡先など交換しておらず、教室でも他人行儀だから彼に咎められることもなかった。所詮はキスフレ。結局、資料室に通わなければ何も始まることのない、大した関係ではなかった、ということだ。 そんな日が続いたある日の放課後、わたしは担任から説教じみたものをされてしまった。適当に返事をし、担任から解放されると、教室で待ってくれているはずの“彼氏”の元へ向かった。けれど、そこに”彼氏“はいなかった。電気もついていなくて、わたしの机上に鞄が載っているだけ。 不思議に思いながらも鞄を手に持ち帰ろうとすると、扉を背にもたれかかってわたしの行く手を阻む彼、遼の姿がそこにあった。 「……それじゃ通れないんだけど」 「なんでおれ以外の奴といつも一緒にいるんだよ」 「そりゃあ、つき合ってるからに決まってるじゃない」 どうして今、このタイミングで咎められないといけないのかと少々気が立って、わたしは荒々しい口調になる。それと反比例するように、彼の方は弱々しいものになっていった。 「……何か、弱みでも握られた?」 いきなり核心を突いてくる彼に驚きながらもわたしは知らないふりをする。 「そうじゃないよ。告白されたからそれに応えただけ」 「なんで?」 「あのさあ」わたしは口を切る。「もともと彼氏じゃなかったじゃん。キスフレっていう、ちょっと突飛な関係だけだったんだし、あなたに咎められる理由もない。それに、自分だってすきなひといるんでしょ? だったら……」 わたしに構わないで、という言葉を発する前に、彼に唇を塞がれてしまった。先ほどまでの口調とは真逆の、荒々しい接吻。これまでに、こんなふうに彼から激しく唇を貪られたことはなかった。 唇が離れ、名残惜しく銀色の糸がふたりを紡ぐ。肩で息をしながら、彼を軽く睨んだ。 「……じゃあ、その括りを改めればいいんだろ」 彼の言葉に「え?」と疑問を投げかける暇もなく、床に組み敷かれた。彼の手によって、手首を拘束され、身動きが取れない。 「ちょ、何すんの……んっ」 再び唇を塞がれる。舌を絡められ、しばらくそうされたあとで唇が離れたとき、彼に見つめられた。いつの間にか取っていた眼鏡。素顔の彼に見つめられると、それだけで理性を失ってしまいそうになる。 「……お前なんて壊れればいい」 投げられた冷たい言葉と同時に、わたしの操はあっけなく奪われてしまった。床には血が滲んでしまっているが、わたしだけしか気がつかないくらいにほんの少しだけだったのでそこはほっとした。 「あいつとは別れろよ。もうおれたちはキスフレじゃないんだから、何されても文句言うな」 そうして、何も言わずに彼が去っていく。彼との関係が、「キスフレ」が「セフレ」に改められる……わたしは制服の乱れも直さず寝たままの状態で突きつけられた事実に泣いた。
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