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名前
わたしは自分の名前が嫌いだ。
幼いころから幾度となく男子にからかわれ、この名をつけた両親を何度恨んだことか。今年で二十歳になったというのに、未だにこの名前を完全に受け入れることができずにいる。引きずってはならないと、頭ではわかっていても、潜在意識ではそれを拒んでいた。
「どうぞー」
上京して結構経った。町を歩いていると、妙な広告が付いたティッシュを配っている光景を見かけることも多々あり、それを受け取ってしまうことにもう抵抗はなくなっていた。
ーーこういう仕事、わたしにはできる気がしないな。
「そういう仕事、興味あるの?」
なんとなく先ほど受け取ったティッシュを眺めていただけなのに、背後からそんな声が聞こえてきた。振り返ると、なんとそこには、わたしが自身の名を嫌いになるきっかけを作った男が立っているではないか。
「……別に。ただ眺めてただけ」
無視すればよかったのに、なぜか無視することができなかった。わたしの言葉に、彼はそうなんだあ、と笑って見せる。
「ねえ、きみ、かわいいねえ。名前、なんていうの?」
彼の言葉を聞いて、わたしはびっくりしてしまった。まさか、わたしの顔を覚えていないというのか。彼のようすを窺うと、本当にこちらのことなどすっかり覚えていないように見えて、今まで悩んできたことがなんだかばからしく思えてきた。
「……教える気ない。そうやってナンパするひと、すきじゃないもん」
「そっかあ。じゃあ、お互い名前を教えないでいっしょに行動するっていうのもおもしろそうだね。行こうか。いいとこ連れて行ってあげるから」
そう言って、彼はわたしの腕を引っ張り、どこかへと連れていこうとした。
「ま、待って。どこへ行こうというの? わたしの用事は優先されないの?」
「別段行く予定の場所もなさそうに見えたけど、もしかして違った?」
「……いや、違わないけど」
「でしょ」
たしかに予定がなかったのは事実で、断る理由も他に思い浮かばず、彼の言うことを聞くしかなかった。
「おれが連れていこうとしているところ、きっときみも気に入る場所だと思うよ」
何度も電車を乗り継ぎ、やって来た場所はひっそりとした場所に存在する美術館だった。
「……なんとなく、きみがすきそうなところかなって思ったんだけど。的外れだった?」
「いや……むしろ、的中しすぎて、なんて言ったらいいのか……」
わたしは面食らった。わたしのことを忘れてしまっているのに、出会ったばかりのひとの趣味を当ててしまうというのは相当のものだ。
まあ、自覚はないがわたしの外見がそういうものをすきだと思わせてしまっているのかもしれないが。
あるいは、この男は、本当はわたしの存在に気づいていて、からかっているのかもしれない。だが、彼の笑っている顔を見たら、そんな計算高いことをしているようには思えなかった。
だから、目の前にいる人はわたしの名をからかう人とは別なのかもしれない、見た目が似ているだけなのかもしれないと、そう思いながら、小洒落た美術館を観覧する。
「……ふう、眼福!」
一通り美術館を見まわって、後にした際に発したわたしの言葉に、隣の彼は訊いてきた。
「どうして、美術系のものがすきなの?」
そんな質問、今までにだれかにされたことはなかったし、ましてやこの男にされるときが来ようとは予想もしなかった。
「……どうしてかな」
「理由もなくすきなんだ?」
「いざ言われると出てこないものだと思うけど。逆に、あなたのすきなものは?」
「おれ? うーん、サッカーかな」
「じゃあ、どうしてって訊かれて、すぐに答えられる?」
「……」
彼が黙り込んでしまったので、わたしもいい答えがないか考えてみてはいるものの、やはり簡単に答えられるものではない気がする。
言葉だけでは言いつくせないことがたくさんある。先ほどまで美術館に展示されていた作品をすべて見て眼福と言ったが、その言葉以上にいいものを見せてもらった感覚に陥った。だからこそ、さまざまな気持ちをたった一言で表すのは、難解すぎる。
結果として、わたしに質問を質問で返された彼は、しばらく考えていたようだったが突然噴き出した。
「な、なんで笑ってるの……」
「いや、真面目だなあと思ってさ。おれはちょっとしたコミュニケーションのつもりで訊いたのに、熱心に考えてくれたから、逆に軽い気持ちで訊いたおれが情けなくて」
それを聞いて、わたしのほうが恥ずかしく、情けない気持ちでいっぱいになる。
どうせ、今日一日だけしか関わらないであろう人物に、難しく考える必要はなかったのではないか。そうは思っても、あしらうことのできない自分の性分に少し嫌気が差した。
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