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ベッドから出て、脱ぎ散らかしてしまった衣類を身に着ける。カバンを持ってこの場を去ろうとすると、寝ていたと思われた人物の手が伸びてきて、腕を掴まれた。
「……どこ、行くの?」
ベッドから起き上がった彼が、目を擦りながらそう言う。
ーーしまった。
彼が目を覚ます前にここを出ていくつもりだったのに、起きられてしまっては、出にくくなってしまう。
「……」
わたしが何も答えられずにいると、彼は急に立ち上がり、わたしを背後から抱きしめた。
「……夏子」
彼がわたしの名を呼んだ。聞き間違いかと思った。今のタイミングで、どうしていきなり……
「わたし、そんな名前じゃないんだけど。だれかと勘違いしてない? もしかして、寝ぼけてる?」
「そんなことない。ちゃんと目も覚めてるし、おれ、最初から、昨日声をかけたときから、夏子だって気づいてた。昔のことも、全部覚えてるよ。おれが夏子との記憶を、ひとつも忘れることなんてできるわけがないんだ」
「な、何を言っているの? 昨夜はなりゆきであなたとあんなことをしてしまったけれど、それも一夜限り。つき合ってあげるって話も、昨日限定だったし、もう関わる必要もないでしょう?」
抱きしめられた体を引き離そうと身を捩ると、さらに強く抱きしめられてしまう。力勝負では明らかにわたしの方が不利だ。わたしは抵抗をやめ彼の方を見やると、悲しげな表情をしていることに気づく。それを見て、胸の奥がドクドクし始める。
「本当は夏子だっておれのこと、気づいていたんだろ。あの頃から夏子がおれのことを嫌っているのは知ってるよ。それもそうだよな、おれ、名前のこと、散々ばかにしてたもんな。今さら言い訳しても遅いけど、あれはばかにしたかったわけじゃない。夏子のこと、初めて見たときからずっとすきだったのに、おれ、あんな態度しかとれなくて……」
「……」
「昨日、後ろ姿を見ただけでもわかったよ。しかも、昔よりもずっときれいになってた夏子に驚いた。だから、おれのことなんて覚えてなかったらどうしようって、そう思ったら初対面のふりをすることしかできなかったんだ」
胸のドキドキの間隔が、どんどん短くなる。このまま彼に自分のすべてを預けてしまいたいと思う気持ちを抑えて、わたしはただ彼の言い分に耳を傾けた。黙るわたしに彼は続ける。
「いつか次に会えたら、言おうと決めてた。夏子、前からきみの名前を悪いとは思ってなかったし、むしろ似合ってるって。それに、おれ、本当は夏子のことが……」
「もういいよ。もうこれ以上何も言わないで。さよなら」
「夏子……!」
待ってくれとわたしを呼び止める彼の声を無視して、わたしは部屋から飛び出した。自分が走りやすい靴を履いていてよかったと心底思った。背後をちらりと確認しても、彼がわたしを追ってきているようすはない。そんなうちに昨日彼と一緒にやってきたグラウンドにまで戻ってきていて、わたしはそこにあった公衆トイレに駆け込む。
「……すき。だいすき、だったよ」
蓋が閉まった洋式の便器の上に座り込んで、わたしは両手で顔を覆い、そう呟きながら、こみ上げてくる感情を抑えられず、涙がこぼれて止まらなかった。
ーー悪い夢を見ていたんだ。幸せすぎる、悪夢を。
きっと、あそこにいた彼は幻。ああやって期待させるだけさせて、彼はまた、わたしの名を侮辱するに違いないんだ。
*
あれからいくつかの年月が経っても、都会の空気の方がわたしには気楽だったので、未だに東京での生活を続けている。
「よろしくお願いしまあす」
にこにこと笑顔でティッシュを配る男性。それを受け取って、これにも妙な広告がプリントされてるわーと見ながら足を進めていた。
「……やっぱり、そういう仕事に興味があるんだな」
「なっ……!」
背後から声がして、それに条件反射のように振り返る。するとそこにはもう顔を合わせないと心に誓ったはずの男がいて、わたしは彼に顎を引き寄せられ、近づいた顔が軽くわたしの唇に触れた。
「……ようやく、見つけた」
唇が離れたあと、男がそう言う。
「な、なんで……」
「ずっと、探してた。もう、勝手にいなくなるなよ」
わたしを抱きしめ、一方的な言葉を呟く。先ほど重なった唇と、抱きしめられたところから伝わってくる体温が、忘れていた、忘れようとしていた名前を、気持ちをぶり返させる。
「陵……」
「夏子……今度はおれの名前、ちゃんと呼んでくれてありがとう」
まるで今までの溝を埋めるかのように、わたしたちは抱き合った。
彼に名前を呼ばれる。たったそれだけのことが、わたしは彼に愛されているのだと実感できる手段なんだ。
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