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接吻
世の中には、キスフレ、というものがあるらしい。ただ、キスをする、というシンプルな関係のそれは、わたしには都合がよかった。
「えー、なっちゃん、彼氏いないのお?」
「いないよー。わたしみたいなやつに彼氏なんかできるわけがないって」
クラスの女子に、恋愛話をされるのは、正直御免だ。教室の隅、廊下側で、複数の友達に囲まれた彼をちらりと見やると、こちらを見ることなく、眼鏡を押し上げて、笑っていた。
――むかつく。
「またまたあ。今いないってだけでしょお? でも、もし、なっちゃんに彼氏がいたとしたら、絶対にかっこいい人だと思うなあ。年上の、秀才エリートとか、めっちゃ似合いそ」
「本当? でも、わたし、恋愛とか、興味ないから……」
イヤだとはっきり伝えるどころか、彼女の言葉を適当にあしらうので精いっぱいだった。予鈴が鳴り、彼女がわたしの元から離れていくのを確認して、ため息をつく。
「……菜都子、朝から御苦労だったな」
昼休みの戯れ、とでもいうのだろうか。誰も立ち寄ることのない埃くさい資料室で、わたしと彼は唇を重ね合わせる。普段、メガネをしている彼の外した素顔を拝める一時でもあった。
「そう思ってくれるなら、黙って見ていないで、助けてくれてもよかったじゃない」
「キスしかしない相手を恋人だとはいえないだろう。馬鹿正直に実際の関係を言う必要もない。それに、教室にいるときは、誰も寄せ付けないオーラが出ているし」
図星をつかれ、何も言い返せなくなってしまう。人と関わることを避けているのは確かなことだった。それに、ふまじめなわたしとは対照的に、律義で他人からの信頼も厚い彼とこのような関係になっていることを知られたら、彼に傷をつけることになってしまうだろう。
「……でも、菜都子の彼氏のイメージが、年上の秀才エリートって、笑える」
そう言いながら、彼は笑いをこらえているようだった。それに怒りを覚えながら、わたしは弁当を広げてがっつく。自分で冷凍食品を詰めただけのそれは寂しく虚しい味がした。
「じゃあさ、遼の彼女のイメージって、どんなんだろ」
冷凍食品の春巻きを頬張りながら、わたしはふと思ったことを口にする。それに関しては彼自身も気になったようで、うーん、と唸りながら考え込んだ。
「……おれの言うことを素直に聞いてくれる従順な子?」
「うわ、それ、彼女になった子がかわいそう。どんな仕打ちされるか、わからないじゃん」
わたしの言ったことに、なんだよ、と口を尖らせながらも、彼もまた弁当を広げ、わたしの茶色い弁当とは違って彩りのあるおかずを頬張る。その一連を眺めていると、彼は軽くため息をついて「食べる?」と訊いてきた。
「え、いいよ別に。せっかくつくってくださったお母さまに申し訳ないし」
「かわいくねえな」彼は箸で卵焼きをつまみ、わたしの口の前まで運んでくる。「黙って卵焼きでも食わされてろよ」
そこまで言われてしまってはわたしもなんだか拒めず、口の前にあるそれを頬張った。わたしがかつて食べていた味と同じ、砂糖がたくさん入った甘い卵焼き。
「おいしい……」
思わず出た一言に、彼は「だろ?」と同調する。そして、その後付け加えた言葉にわたしは驚きを隠せなかった。
「おれが作るんだから、不味いなど、まずあり得ないことだな」
「へ? 作ってるの? 遼が?」
「なんだよ。そんなに驚くことないだろ。料理くらい、男のたしなみとして、いまどきできなくては」
料理、というか家事全般ができないわたしは、女ですが、どうしたらいいのでしょう。そう訊ねてしまっては自分の羞恥を煽るだけなので、何も言わずにまた揚げ物に箸を伸ばした。それを見て、彼がもっと食うかと訊いてきたけれど「もう要らない」と断固した。
「……なんだよ。怒ってるのか?」
「別に」
怒っているわけではない。自分の不得意なことが彼はできてしまうことに、それを当然と扱われてしまうことに、何より自分にそれができないことに歯がゆさを感じているだけだ。
何を思ったのか、ふいに唇を押しあてられた。彼の口にはトマトがある。わたしはそれを自然と受け取って飲み込む形になる。
「やってみたかったんだよね、口移しでトマト食べさせるの」
もごもごと口を動かすわたしを見ながら、舌なめずりをする彼は、今までわたしが見てきた中でも妖艶で、下半身から粘着性のある液体が溢れだすのを感じた。
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