父さんと呼んだことがない

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父さんと呼んだことがない

あれは夏の終わりの蒸し暑い夜だった 母からの電話 「おっちゃんが死んだ」..... 父は私が3歳になる前に亡くなった。 だいぶん大きくなってから聞いた話しだと 冬の寒い夜に川に落ちて気を失い そのまま亡くなったと… 「たぶん凍死だろう」という  適当な母の言葉だった... たしかに12月13日の事だから 随分と寒かったと思う 昔のことだから事件性はないと簡単に 判断されていたんだろう 現在はその川は上を塞がれ 見えなくなっているが 15歳ぐらいまでは見えていた 川といっても膝下ぐらいの水深で 雨が降らなきゃ、せせらぎ程度の川 ごつごつとした石は多かった。 川岸は結構高かったので はまったというより転落したという 表現が正解だと思う。 転落で頭とかを強く打ち気絶して 寒さで凍死... これが私の答えだった。 ただ かなり泥酔状態だったらしいから さぞかし、楽に死ねたのではないかと…… 自ら落ちたのか⁈そうでないのかは 今となっては分からない。 というのは 当時、兄弟で営んでいた電気工事会社から 父は出て「独立して電鉄関係の工事会社を 立ち上げたい!」と 相談をしに兄(伯父)に会いにいった夜 だったそうだ.. 前々からそれが元でかなり揉めていたそうだが 大人になってから母に そんな事を聞かされてもなぁと だから物心付く前から父はいない。 その代わり4歳になる前から、父に代わって どっかのが家にいるようになっていた。 再婚でも、なんでもなく物心付いた頃には 家にいた。 母が女手一つで4人の子供を育てていたので それを見かねて、生活の面倒を見てくれていた おっちゃんだった。 もちろん、母とは男女関係だったと思えるが いっさいそれは感じたことはなかった。 子供たちに気を使ってたのか 籍を入れて再婚はしていなかった。 いや、 おっちゃんにはの家庭があるので そんな事は出来る訳がない! そちらでは養子だったが 、結婚して娘もいて 家も建て普通の家庭があった...と にも関わらず、母の家に入り浸る。 生活の基盤は母の家になっていた。 私たちはこんな複雑な家庭環境で育った。 それは 生前の父と暮らした家から引っ越す時に おっちゃんとの生活が始まったのだ それが耐えられなかった10歳上の兄は 引っ越す前に家を出て、中学2年の時から 近くの親戚家に世話になり 離れ離れで生活するようになった。 このことがあり、実兄だが未だに 他人のようによそよそしく接してしまう。 私は末っ子で3歳上の兄と ずっと一緒にいた。 6歳上の姉は 小さい時は相手してくれなかったが 私が6歳ぐらいからは、ネェちゃんと呼ぶように なり、構ってくれるようになった。 子供の頃はおっちゃんに家庭があるなんて 当然知らないし そんな事など、何んにも興味がなかった。 とにかく、家には父ではなく おっちゃんが居たのだ。 自分が大人になり、思う事は いくら大人の事情があったにせよ 母もおっちゃんも自分たちの事しか 考えていなかったんだろうか? 父は借金を残してその肩代わりも おっちゃんがしてくれたと聞いていた。 だから3人の子供を育てる為には 母はそうでもしないと生活がやって いけなかったんだろうと思う。 子供たちを食わしてくために、たまたま 運良くおっちゃんと出会ったんだろうか... 物心がつき、反抗する時期になると やっぱり、おっちゃんが嫌いになる。 嫌いになった一番の理由は酒癖 我が家は酒癖では悪い思い出しかない。 酒癖の悪かった 父、おっちゃん、ネェちゃん。 なので男兄弟たちはみな酒を飲まない 意識して飲んでいないんだろうか? おっちゃんは日増しに 酒癖が悪くなっていった。 最初の頃はマシだったように思う。 二重生活?いや、まず100%こっちの家に 来てたと思う、だからストレスが多かったのか 次第に酒癖が悪くなっていった。 家で飲むことは、ほとんど無く 外で浴びるほど飲んで帰ってくる。 当時、駅から5分ぐらいの団地の5階に 住んでいたのだが 駅に着いてから、歩いて帰ってくる時には 酔っ払って大声で叫びながら帰ってくるのが 5階の窓からも聞こえた。 当然、近所の人たちも聞こえていた。 夏場は窓をあけているのでどの家庭も 今日もまたかという感じだったはず。 1階から5階までの階段でも、どなりまくる。 あまりの恥ずかしさに私は耳をふさぎ 布団に入り、 その酔っ払いの嵐が過ぎるのを待った。 中学生の時、珍しく家で飲んで くだを巻いたので … 辛抱たまらなくなり こんな奴死んでくれと、本当に 本当に殺したくて包丁で刺そうとした。 母に止められ、我に返ったが バカな男にバカな事をするところだった。 なので早くこんな家を出たかったし お金もないので工業高校にいき卒業して 就職と同時に家を出るつもりだった。 計画通り、卒業とともに家を出た。 そして20歳で結婚 その頃、母に聞かされてたいたのは 年のせいだろうか おっちゃんの酒も少なくなり 酒で暴れる事は少なくなっていたそうだ。 そして、 私も子供ができ、親のありがたみや 大変さを理解でき、すこしづつ 母とおっちゃんを許せるようになっていた。 子供がまだ赤ちゃんの時に 実家に連れていった事もある。 「じいじ」と呼ばせるには抵抗があった。 特に嫁は嫌がっていた。 けど母がじいじと普通に 言わしてるのを見るとなぜか止める事は できなかった。 酒飲みでも、少しの酒の時は 本当にだった。 それと唯一感心できたのは どれだけ酒を飲んで暴れて 吐いて酔い潰れても 翌朝はひとりで誰よりも早く起きて しっかりと仕事に行っていた。 大工だったがこれだけは本当に偉い人だと 趣味の大好きな釣りに行く時は早朝から 出ていっていた。 歳を重ねるとともに 生活はおだやかになりつつあった。 そんな家に不幸が訪れる。 夏の終わりの蒸し暑い夜だった。 その日は 仕事を終えて夜、車で帰宅する時 雨上がりに濃い霧が出ていた。 家の近くまで帰って来ると 普段はいないところに警察官が立っていた。 何か近くであったのかな?と... 霧が濃く視界が悪かったので 何か事故でもあったのかなと、思う程度で 深く考えず帰宅した。 当時、私は母の家の近くに住んでいた。 食事してゆっくりして寝ようか…と 思っていた時に母から電話があり 「おっちゃんが死んだ」...... おっちゃんが家の近くの道路で 車に轢かれ亡くなったので 警察が来て欲しいと言われた。 母は「行けないから行ってくれ」と 母が行くべきだろうと強く言ったが どうしても嫌だと。 長年連れ添ったおっちゃんが 亡くなったのに、母が行かないのは おかしいだろうと、何度も言ったが聞かない。 悲しさより、不条理なことを言う母に 呆れていた。 気が動転していけないのか? おっちゃんの亡骸も待っているだろうと 思って引き受けた。 私は慌ただしく用意して 代わりに警察署にいった。 警察に着いて、母が行きたくなかった 理由がわかった。 そこには戸籍上の奥さんが 知り合いに付き添われ来ていた。 私は身分を名乗り挨拶をした。 奥さんからは挨拶はなかった... 警察署の対面の長椅子に座らされて ずっと待っていた。 気まずい空気が流れる中 ずっと長い時間待たされていた。 夜が明ける前に やっと警察の方が来て 「明日、ご遺体の解剖があります」 「兵庫県監察医務室でを 実施します」 目撃者と状況から判断して ひき逃げ事件の可能性があるので 司法解剖をして死因をしらべるので その許可をいただけますでしようか?と 間髪入れずに奥さんはお願いしますと… 私も、わかりましたと 私は警察の方にその場所と始まる時間を 教えてもらった。 これを聞かされるだけの為に延々と待たされていた。 事件性が高いので止むを得ないと 納得していたところに、奥さんから 初めての言葉 『あとは全てこちらでしますので』と この時は全ての意味がなんとなくしか 理解できていなかった。 あとで、そういう事かと知る 私はもう電車もタクシーも ないだろうから 私は車なのでお送りしますと言ったが 一度は断られた、が友達に促され 乗ってもらい、だいたいの場所を 聞いてそこまで送っていった。 すでに夜が明けていた。 住所を知られるが嫌だったのだろう 多分、だいぶん離れたところで 『ここでいいから』と車から降りた。 「明日、最後の顔をみさせて頂いても よろしいですか」とお願いした。 最初は拒絶されたが、なんとか それだけはさせてもらえるようになった。 人の旦那を奪っておきながら言える 立場でない事はわかっていたが 30年近くなぜ今まで家に帰って来なかった 不徳な旦那を、亡くなったからといって 今更面倒見たいのか ?面倒だと思わないのか? これが夫婦なのか?本妻の意地なのか? 夫婦とは何かわからなくなってしまう。 今更だか、おっちちゃんはなんとなく 養子で居心地がよくなかったんだろうか… どんな理由があったんだろうか?  本妻にはしっかりと生活費を入れていた みたいで、母は最低限の面倒をみて もらってたそうで、それはそれで なんとなく理解できる気がしたが ただ、ケジメを長年つけれなかったのは おっちゃん、本妻、母の3人は みな同罪だと思う。 お互いの子供たちは苦しんでたんだと感じる 帰ってから、母に朝までの事を伝えるが 悲しむどころか、向こうの嫁さんは保険金目当て で今頃、奥さん面していると 「やめろ!」と いくら言っても、母さんには勝ち目はない。 母さんとは事実婚だとしても 戸籍は抜かなかった理由が おっちゃん夫婦にはあったんだろうと すると離婚しなかったのは また、財産目当てだ!と 人の旦那を奪っておいて、 悪口を言えた身分かと怒鳴った。 悪態をついていたが、本当は 母は母なりに悲しんでたんだろう 兄弟全員に連絡して 翌日 兵庫区の兵庫県監察医務室のところで 解剖後の顔をみさせてもらった。 なぜか向こうの家族は来ていなかった 私たちと顔を合わせたくなかったのか.. 少し打撲箇所はあったが まだ、寝顔のような顔だった。 痛かったんだろうな…と、それとも 酔っ払って寝てたから、痛みは感じなかったか? なぁ、おっちゃんよ … 母の家まであと2分の所で酔っ払って 道路に寝てた所を車でひかれたそうだ 死因は事故死(圧死) 目撃者がいて、その方が 救急車と警察を呼んでくれた。 車はだったと 警察の人いわく 道路に寝た状態で車に轢かれると ほとんど、証拠となるのもが現場に残らず 犯人は見つけるのは難しいとの事。 それでも、しっかりして欲しかった警察 怠慢じゃないかと思うが犯人は 未だにつかまっていない もう無理だろう... あれから何十年も立つが 夏の終わりの命日には、おっちゃんが 亡くなった道路の端に花を手向け 手を合わせるようになった。 酔っ払って、轢かれて亡くなったのだから 苦しむ事は無かったのだろう 「どうだったよ、おっちゃん」 もう少しだけ歩いたら助かってたのになぁ お墓は教えてもらえず.... あのとき、奥さんの家では しっかり供養して貰えただろうか たしかに、おっちゃんは死んで お金を残して奥さんに詫びたんだろう 母にはおっちゃんの釣竿が残された.... おっちゃんの最後の場所に立つと 色々と思いだされる。 この事件は新聞でも小さく載って いた、犯人は何か轢いたと思ったなら 新聞を見ていたはず。 もしくは、轢いた感じも無かったの なら何も気にしてなかっただろうか 当時、轢いた車の進行方向には ○○台という住宅地があり、抜け道はなく 事故現場の道路しか通り道はなかった。 なので、その地域一帯に住んでいる 白いワンボックス車の持ち主には 全部にあたったらしい ならばその時に知り気づいているはず 今も犯人はどこかでまだ生きているだろう 人殺しが普通に暮らしてる... 代わりに酔っ払いのおっちゃんが1人 亡くなっただけである.... おっちゃんは 母の家が好きだったんだろうか 私たちの事はどう思ってたんだろうか 父さんと呼んでほしかったのか 聞いとけばよかった.... なぜ、歩道から道路に出て寝てしまったんだ? 本当は死にたかったのか? 色々とおっちゃんの事に思いを巡らせる.... また、今年も夏が終わろうとしている 歩道のよこに小さく手向けた花を あの日と違って涼風が揺らしている..... 「また、来年なおっちゃん」 肝心なときには逃げ出した母も、もういない... みんないなくなっていく.... 父と母、そしておっちゃんと あの世で仲良くしているのだろか? たぶん、喧嘩してるだろなぁ..... ....もう夏も終わる....
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