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「これだよ」
いたのは、セミのような巨大な虫だった。
人間でいうと中学生ほどの大きさの虫が1匹、寝室の壁に張り付いている。
「ひっ」
驚き、逃げ出そうとするTさん。
「姉ちゃん、頼むよ、ちょっと手伝ってくれないか」
「無理、絶対無理」
何を頼まれるか聞いていない段階ではあるが、Tさんはもう逃げ出したい気持ちを抑えきれない。弟が悲痛な表情で懇願するが、こんな状況の部屋にいられるわけもない。
慌てて部屋から出ようとするが、バランスを崩して転んでしまった。
「えっ、ううっ」
立ち上がれない。頭も痛くなってきた。
まさか、このセミのような虫が有毒ガスを発しているのか。
「10日ほど前に、窓を開けてたらこいつが入ってきてさ」
媚びたような笑みを浮かべながら弟が話し始める。
「それで、ずっと部屋から出て行かないんだよ。ほうきとか傘とかで殴ってみたんだけど、天井に張り付いたりしてさ、ダメだった」
Tさんは床に這いつくばったままだ。虫の方を見る。
不思議に思った。虫の腹が動いている。
セミはお腹の筋肉を震わせ、空洞状の体にそれを共鳴させて鳴くのだと聞いたことがあった。
では、このセミみたいな虫は鳴いているのか?
「姉ちゃん、俺、部屋を出て行こうかと思ってるんだけど」
姉が倒れているのに弟は心配した様子もない。目の焦点が合わず、壁を見つめている。
ここで1つの仮設がTさんの頭に浮かぶ。
こいつの鳴き声は、人間の耳に聞こえる周波数ではないのではないか。そして、耳には聞こえないけれども聴力にダメージを与えて平衡感覚を奪っているのではないか。
確かめる術はないし、そうしたくもなかった。
Tさんは腹ばいのまま這いずって部屋から出る。
弟も虫も追いかけてこない。両手で耳をふさぎ、力を振り絞って立ち上がる。
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