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その高年の女性は、私が勝手に入り込んだ畑の持ち主だった。
「人んちの畑をなんだと思うてんだ!」
もっともすぎる怒りに、謝罪するしかなかった。今日はもう電車はないそうで、家に泊めてもらえることになった。
スーツで震えていた私は相当に不審だったろうが、事情を訊かれることもなかった。立ち入るのが面倒だったのかもしれない。ずっと呆れかえっている様子だったが、不法侵入したことを考えれば親切すぎるほどだった。常に怒鳴っていたが、怒っているというより耳が遠いせいのようだった。
私は終始、ぼうっとしていた。感情が強く動きすぎたせいかもしれなかった。
結局、咲羽香に殉じることができなかった。
そのことを、どう捉えればいいのか、わからなかった。
翌朝、車で駅に送ってもらった。迷惑しかかけておらず、針の筵だった。
助手席の窓から、雪に埋もれた田舎の景色を眺めた。たくさんの畑があり、昨日の場所がどこかはわからなかった。
何気なく視線を上にやり──車内のサンバイザーに釘付けになった。
昨晩、車窓に見た幻燈が、まだ続いているのかと思った。
オレンジから黄色へ、やわらかいグラデーションの泡が、画用紙の白を背景に立ち上っていく。咲羽香の絵が、無造作にバイザーの端に挟まれていた。
私が凝視しているのに気づいたらしい。女性が言った。
「何年か前、その絵の子もうちの畑で倒れたったんだ。今は、何駅か先の役所で働いとって、たまに挨拶にくるが」
なんでうちの畑なんか、と女性がぶつぶつ言うのを、私は信じられない思いで聞いた。
生きているのか……
力が抜けた。私が死ねなかったように、咲羽香も生きているらしかった。あれは、幽霊じゃなかったのか。生霊か、あの日の思いの残滓か、あるいは私が見た幻だったのか……
駅で降ろしてもらい、やがて電車に乗った。
窓の外を眺める。生きていくことへの不安が、ふたたび押し寄せてきた。
目を閉じると、オレンジから黄色のやわらかな色彩が瞼の色に広がった。淡く滲む彼女の絵が、私は好きだった。他の誰にとって価値がなくとも。
また死にたくなるほど傷ついたとき、あの絵を思い出すだろう。
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