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列車は夏の終わりに差しかかっていた。
窓の外では白っぽい砂浜が光を散乱させ、私はまぶしさに顔をしかめた。濃い青の波も重い質量感のある雲も、咲羽香があの頃、よく描いていた水彩画みたいに滲んでいた。
「懐かしい。先輩と二人で行きましたね、海。あれが最後のお出かけだったなぁ」
咲羽香は、はしゃいだ声を上げた。
私は窓枠に肘をついたまま、ボックス席の向かいに座る彼女を眺めた。なんでこんな明るく話せるのかわからなかったし、今日は誰とも話したくなかった。
「先輩ってば、わたしが事前によーくお願いしたのに水着、持ってきてくれないんですもん。あーあ、見たかったなー、先輩の水着姿」
そりゃ私は就活でそれどころじゃなかったからね。
もっともその前の年の夏は、海に行くこと自体を断った。咲羽香と海に行くなんて、冗談じゃなかった。お互いの水着姿にドキドキ、なんてイベントを期待していたんだろうけど、そんなの周りにカップルですって吹聴しているようなもんじゃないか。
不意に怒りが込み上げてきた。
咲羽香は付き合いはじめの頃、私のことを自分の同級生に勝手にばらした。私のことを知らない子だからって弁明してたけど、許せなかった。五年経っても許せていないみたいで、驚くほど新鮮な怒りが胸の底から湧いてきた。
私の方が、咲羽香にひどいことをしたくせに。
「ていうか、なんでいんの? 幽霊?」
冷たい声が出た。
彼女を傷つけた実感が、持てないままに。
私のせいで咲羽香は幽霊になった──らしい、のに。
声を発した瞬間、舞台が暗転するみたいに窓の外が暗くなった。咲羽香が私との思い出を語る間、幻燈のように移り変わっていた風景が消え、現実の暗闇が戻ってきた。窓に、ぶすったれた私の顔が映っていた。
向かいの咲羽香は、映っていない。彼女は困ったように微笑んだ。
「さぁ……自分でも、よくわかってなくて」
「私を恨んで出てきたんじゃないのかよ」
「うーん、そういうかんじでも、ないですねぇ」
のんびりと間延びした喋り方、おっとりとした動作。育ちのよさからくる暢気さに、私はあの夏の終わりと同じようにイラつく。
なんでよりによって今、咲羽香と会ってしまったのか。
死にたくなるくらい傷つけられた日に、死んでしまうくらい傷つけた相手が出てくるなんて、皮肉が効きすぎている。
あるいは、そういう罰なのかな。
「先輩は、今日はどうしたんですか?」
ため息で応える。
私が塞いでいると、咲羽香は絶対にまとわりついてくるタイプだった。放っておいてほしいのに、一人にしとけないですよ、とか言って。
今日のことを語るには、まだ出来事が生々しすぎて、自傷みたいになるのはわかっていた。でも今は、笑えてくるくらい自暴自棄な気分だった。仕事に着ていったスーツとトレンチコートのまま、あてもなく電車に乗り込むくらいには。
「振られたの。男に」
言ってから、咲羽香も傷つくかもしれないな、と気づいた。
なのに悔やむ気持ちにもなれなくて、自分の薄情さに呆れる。付き合っていたくせに、今の私は、咲羽香の好きだったところが思い出せない。
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