もういない君と車窓を望んで

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「好き……だったんですか? その男の人が」 「まさか」  私は、咲羽香の反応を観察した。ショックを受けているのか、私の痛いところを踏まないために慎重になっているのか、判別しがたい。  窓の外に明かりはほとんどなく、山や森の輪郭が暗く闇に沈んでいた。電車は猛スピードで走っている。都心の駅間をのたのた走る、通勤電車とは大違いだった。座席の下の暖房が強すぎて、ストッキングの足がやけどしそうだった。寒いところに行く電車なのかもしれなかった。  乗客はほとんどいない。きつい暖房で乾いた空気に満たされて、列車全体が眠っているみたいだった。  咲羽香って、他の人に見えてんのかな?  別に、一人でしゃべってるイタい女でも、気にしないけど。 「好きにならなくていいとか、言ってたはずなんだけどね」  あの男とは、そういう契約だった。  結婚しても自由にやりたいから、逆に自分のことを好きじゃない相手の方がいいって。子どもはいらないし、外で女と遊びたいし。  クズの(げん)だったけど、都合はよさそうだった。  私に干渉してこない相手から、結婚ていうスペックだけもらっとくのは。  この社会は既婚者ってだけで、いろいろ保障されるから。  いろいろって? わかんないけど、私がいつもつぶされそうな、形のない不安から逃れられる気がした。  だから、あんたのこと絶対好きにならないけど、どう? と訊いた。レズビアンだってカミングアウトすれば説得力を増したかもしれないけど、このクズに秘密を握られるのはヤバイと判断した。  こっちも願ったり叶ったりだって、あいつはそう答えたくせに。 「やっぱ自分のことが好きな子がいいとかってさぁ」  つい何時間だか前のことを思い出して、笑ってしまう。  仕事終わりに喫茶店に呼び出されるから、何かと思った。スーツのまんま、化粧直しすらしないで姿を現した私と違って、あいつの隣に座った女は隙なく洒落めかしていた。  長々と話を聞かせられたけど、結局は、自分のためにおしゃれしてくれて、尽くしてくれる子と生きた方が張り合いがあるという、そういうことだった。 『え、約束と違うじゃん』  思わず口に出したとき、あいつが浮かべた軽蔑の表情を、私は忘れない。  今日で一番の理不尽。  あいつのことは本当に好きじゃなかったから、女がいたことはどうでもいい。相手の女のことも。こいつ絶対、浮気すんのに、と呆れはしたけれど。  好きでもなかったのに、こんなダメージくらってるのが不本意だった。  咲羽香が、そうですか、と言った。ため息みたいに、静かな声だった。 「先輩が、そういう方法で安心しようとするのは、わかります」  いたわるような声は、私が四年間、忘れていた感情に火をくべる。 「だったらあんたが安心させてくれたらよかったじゃん」  声は低く沈んでいて、そのくせ溶岩みたいにどろどろした熱を帯びている。  私は咲羽香に謝罪をするべきなんじゃないのかな。傷つけてごめん、あんなこと言ってごめん、って謝るべきなんじゃないのかな。  なのに全然、そんな気持ちになれない。
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