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咲羽香とは、大学で会った。一年後輩だった。
文化祭のとき、パペット同好会の呼び込みをしていた咲羽香に連れられて、特に興味もなかった人形劇を見た。
ついていったってことは、何かぴんと来たんだろうな、咲羽香に。
その日のうちに連絡先を交換したはずだし。
あまり、覚えていない。
私は、窓の外に目を向けた。暗い夜の風景が続いていた。地面にはいつのまにか雪が積もっていて、砂浜の死骸のようだった。吹雪いてきたようで、大きな雪の粒が次々、斜めに落ちていくのも見えた。
私が過去を思い出しても、景色は変わらない。
幽霊の力か何か知らないが、あの幻燈は、夢見がちの咲羽香が好きそうな演出だとは思った。咲羽香があの頃、ずっと描いていた、絵の世界みたいで。
咲羽香が入っていたパペット同好会は、文化祭の前後くらいしか活動していなかった。咲羽香はそれをいいことに部室を使って毎日、絵を描いていた。
水彩画。やわらかい色彩がグラデーションされた泡が、大小ふわりと浮かぶ、抽象的な絵。
赤から橙をへて黄色へ、あるいは桃色をへて白へ。黄緑がごくまれに使われることはあったが、寒色はほぼ使用されなかった。色数が制限されている上に、描く形もだいたい同じだから、絵心のない私には違いがわからなかった。
別に、好きなことをしていたっていい。ただ私は、咲羽香がいくら言ってもサマーインターンに参加しようとしなかったことが、不満だった。
私は大学四年生の四月から漫然と就活をはじめ、後悔していた。もっと早くからはじめておけばよかった。大手の会社では、私のようなFランク大学の学生は、書類選考ではじかれた。自己分析も志望動機も準備が足りず、面接にたどりついてもそこで終わりだった。
何もかもが不安だった。内定はいまだなく、結果待ちの企業も望み薄だった。
就職は絶対にしたかった。
社会に助けてもらそうになかったから。私は、生産性のない存在らしいから。
路頭に迷ったとして、もしかしたら両親が援助してくれるかもしれない。でも、もし私の性的指向がばれたら? 家を放り出されたりしないか? やさしかったり時々めんどくさそうだったり、よくいる親だったけど、そういう相手が豹変するのが一番こわかった。
ちゃんとした企業に勤めて、老後の面倒まで自分でみなくちゃ。
こんなことなら、公務員になれるくらい勉強しときゃよかった。
ずっと漠然と不安を抱えてたくせに、今更焦っても遅いんだ。だから咲羽香は、ちゃんと早くはじめないとだめだよ。三年なんだからまだ間に合うよ。
あの、夏の終わり。
パラソルの下で、私は語気を荒くした。砂浜に落ちた濃い影が、私の将来そのものに思えた。
そんな私に、咲羽香は、だいじょうぶですよ、と笑った──
「何がだいじょうぶなんだかなぁ」
電車は橋を渡っていて、ガタガタと揺れていた。
咲羽香は黙っていたけど、眼差しに沈痛な色が混じった気がした。
本当にだいじょうぶだと咲羽香は思っていたんだろう。私を捕らえて離さない不安の影は、咲羽香には届かないようだった。
行かずじまいだったけれど、都心の戸建ての家で育って、兄は東大、姉は慶應。でもそんなきょうだいと、Fラン大学に通う自分を比較する様子もない。天真爛漫に愛されて育つと、そうなるんだろうか?
明るい未来があると屈託なく信じていて、だから友達に恋人の話だってできる。
私はダメだった。根拠なく未来を思い描くなんてできなかった。今も、鬱で休職して、収入もなくなって、誰からも見放されて、そのうちどっかで孤独に死ぬような気がしている。
「わっかんないなぁ。なんで、そんなに他人事なの?」
声に一度、怒りがこもったら、それに引きずられるように興奮した。私は知らずのうちに立ち上がって、まくし立てていた。
「私らのこと、存在自体が嫌いな人間がいるんだよ? 気持ち悪くて、生産性なくて、価値がないって思ってる人間がさぁ、ごまんといるわけ。なんでそんな暢気なの? 人にばらして平気なの? 大したことない大学に行って大したことない絵なんか描いて、就活くらい真面目にやらないとって思わない?」
いや、もう幽霊だから就活とか関係ないのか。
頭の中の冷静な部分が思ったけど、口は止まらなかった。咲羽香は目を見開いて、私のことを見ていた。だいじょうぶ、と笑ってみせた彼女の、傷ついた顔だった。
そうだ、あのとき、はじめて咲羽香は傷ついた顔をしたのだった。
「だいじょうぶとか簡単に言うなよ。そんなの信じらんないよ。そんなに、簡単に、私の不安を否定しないでよ。一緒にこのクソの現実と闘ってよ! インターンくらい行ってってば! 恋人ならさぁ、私を、さぁ……」
うわ。泣いた。私が。
四年前とほぼ同じことを言っているのに、泣いていることに自分で引く。
「助けてよ、ねぇ……一緒にいらんないよ、こんなんじゃ……」
窓の外は暗く、相変わらず雪が降っているのが、目の端に映った。
今の風景なのか、それとも過去の幻なのか、わからない。あのときも、都心にしては珍しく、雪が降っていた。
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