第三章

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「仕方なかったんだ。母さんはほとんど正気を失っていたし、幼い僕は事の重大さを理解していなかった」 「父親はなんで止めなかったんだよ」 「止めようとしたけど、止められなかったんだ。母さんの暴走は僕が兄さんに成り代わることでしか止められなかった。父さんは知らない間に家を出て行って、もう何年も会ってない」  ふと、父の記憶が蘇った。ちゃぶ台の前で焼酎を飲む父の記憶だ。僕は兄の真似をして酒を注ごうとした。けれども酒はグラスからボタボタとこぼれてしまった。思っていたよりも焼酎瓶が重かったのもあるが、当時は兄から受け継いだメガネの度数が合っていなかったのだ。 『お前よお、誰のために生きてんだ?』  吐き捨てるような父の言葉に、僕は何も返せなかった。ただ微笑みを絶やさないように頑張った。頑張っていれば、いつか元通りの家族になれると信じていた。父は昆虫を見るような目で僕を一瞥(いちべつ)し、布団に潜った。そして翌朝、姿を消した。 「母さんが」  埃を被った風鈴がちりん、とかすかな音を立てた。 「母さんだけがあの夏に閉じ込められたままなんだ。置き去りにするわけにはいかない」  僕は顔を上げ、肩を掴む深山の手をそっと払った。深山には未来がある。意思がある。夢も希望も。ただ母の言いつけを守り、別人に成り代わった僕とは違う。プールサイドで並んで話しているうちに、僕は勘違いしてしまったのだ。何もかもが決定的に違うというのに。 「キミの本当の名前は?」  深山が尋ねた。迷子になった子供に話しかけるような声色で。 「(うつぎ)……」 「ウツギ、一緒に、夏を終わらせよう」  僕の手を取り、そのまま外へと駆け出した。
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