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徐々に呼吸が整い始めた時だった。誰かの声が聞こえた気がして僕は耳を澄ませた。錆びついたプールの扉の前に、息を切らせた母さんが立っていた。
「壱、そこにいるの!?」
怒気を含んだ金切り声に、僕は反射的に身を竦ませた。生温かった水が途端に氷のような冷たさをもって全身を縮み上がらせる。ガチガチと奥歯の鳴る音が聞こえる。
「ここからは手伝ってやれない。ウツギ、キミの力で乗り越えるんだ」
肩に置かれた深山の手の温もりが、凍った体を溶かしてくれた。
「母さん、ぼくはここだ!」
僕の姿を捉えると同時に、母はプールに飛び込んだ。半狂乱になりながら手脚をバタつかせ、やっとのことで僕のもとへと辿り着く。大量の水を飲み込んだのだろう。その顔は涙と鼻水にまみれている。
「この子まで連れて行かないで」
そう言って、僕を力強く抱きしめた。僕は震える背中に手を回し、母をぎゅっと抱きしめ返す。「ごめんね、稔、ごめん」ぼろぼろと涙をこぼしながら繰り返す母は、僕よりずっと小さく見えた。僕は、母さんを終わらない夏から連れ出してあげたい。
「大丈夫だよ、僕はどこにも行かないよ」
背中をさすりながら僕は言う。
「大きくなったんだ、底に脚がつくほど。もう十五になるからね」
「そっか、そうだね」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、母が弱々しく微笑んだ。
「稔、大きくなったね」
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