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「起きてクロエ」
木蓮の声に目覚めてまず映ったのは天鵞絨のような群青だった。
嗚呼、僕はなにをしていたんだっけ。そうだ。木蓮と夜の学校に来ていたのだった。
そんなことをぼんやり考えながら磔にされたオライオンと目があった。秋を越えて冬がきてしまった。
「どうしよう。僕たちずいぶん寝てしまったようだ」
「そのようだね」
起き上がると同時に背中に痛みが走った。
「今は何時だい?」
「四時を回ったところだよ。早くしないと夜が明けてしまう。さぁ、裏庭に行こう」
駆けだした木蓮をクロエは背中の痛みを堪えながら追いかけた。踊り場の小窓から金色の月光が差し、二人の少年の影が泳いでいる。
一階の渡り廊下から校舎の裏に回ると甃の小径が薔薇の隧道の先まで延びている。木蓮は隧道に潜ると薔薇に顔を近づけた。薔薇はまだ蕾だった。
「どんな香り?」
「消臭剤の香りがする」
クロエは吹きだした。木蓮もつられて笑った。
百日紅がはらはらと地面を紅紫色に染める。女郎花は月光でどぎつく黄金色に輝き、竜胆は群青の夜空を写したように凛としている。涼風と花々が踊る月夜だった。木蓮は庭の隅にじっと蹲った。
「どうしたんだい?」
「白い桔梗が咲いているよ」
それは紫の桔梗のなかにすきっと咲いて、星を象る花は午前四時の天狼星と同じく燦然としている。
「綺麗だね。そうだ、この桔梗を押し花にして新しい栞を作ろう」
クロエは背中が冷たくなった。そして無意識に衣嚢の栞に触れた。
これをいつ渡そうかという言い訳はもう時間切れだった。クロエは意気地なしなのだ。丹精込めて手作りしたものさえ、瞬間と相手の機嫌を伺わないと渡せないような小心者なのだ。そして、木蓮が押し花にする桔梗を選び始めると夏の栄華の象徴のような凌霄花は木蓮には不似合いだと渡さない理由を正当化させた。
「……海玻璃の栞はどうするんだい?」
「あれは諦めることにするよ。どこにやったか本当に検討もつかない。もし見つけてくれたら、クロエ、君にあげるよ」
「あれは木蓮のお気に入りだろ。もらえないよ」
「もらってほしいんだ」
木蓮は萎みはじめた桔梗を一つ摘んだ。
「僕はずっと旅をするように生活してきた。一つの場所にずっといられないように、この世のありとあらゆるものにずっとがないことを知っている。あの海玻璃の栞ともいつかお別れしなくちゃならない時がくる」
桔梗がそよそよと靡いている。百日紅の花が降る。金木犀がかすかに香る。
「別れを嘆くばかりでは、なにも手に入らないことも知っている。僕たちが初めて会った日のことを覚えているかい、クロエ。僕はあの日、クロエに会えて本当にラッキーだったと思っているよ。一緒に天象儀に行ったこと、秘密基地の喫茶で交わした話、夏に飲むくりぃむ曹達の味、季節の境目を探す冒険。永遠には続かないけれど、たしかにここであったんだ。だからクロエ」
木蓮は桔梗を差しだした。昇りたての金星がやたらと眩しく、夜が明けることを知らせる。
「僕がここにいたことを忘れないでほしいんだ。だから海玻璃の栞は君にもらってほしい」
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