零れる記憶に手をのばす

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「ねぇ、(れい)」 いくら呼んでも、答えてはくれない。 綺麗な目蓋を伏せた眠り姫は私の横で、愛おしい寝息を立てている。 思わず撫でたくなるような優しい寝顔だ。 一体どうやったら、こんなに邪気の無い表情ができるのだろうか。 午後5時半、車窓が手放していく今日の景色。 照り疲れたのか、今日の太陽が傾き始めている。 零、夏が終わったらこの街を出るんだって、嬉しそうに言ったよね。 零が告げた街の名で、すぐに会いに行けることはもうなくなることが分かったけど。 だからこの夏は一緒に色んなとこ行こうねって、零が言った時のこと信じられないくらい鮮明に覚えてるよ。 バス停バックに棒アイスを持った零が本当に可愛くて、それでいて綺麗で。 その中に零がいるなら、煩い蝉時雨も倒れそうな暑さも、瓶に詰めて飾りたいと思ったの。 明日の私の、隣に零はいない。 それを思うと無性に、胸が痛んだ。 「零」 最後の思い出をつくるために海に行こうだなんて、らしくないこと言ったよね。 思い出って何かな。 いい思い出はさ。 記憶が褪せないように、美化して心に残るものなんでしょう? 零、夏は不思議なものだって言っていたよね。 どんなことでも夏の魔法で美化されて、綺麗に記憶は残るんだって。 夏という幻がかけたフィルターの中にいたのかな、私たち。 それとも理想の夏を、ただ模倣していただけなのかな。 私の感じた夏ときらめきはどうなってしまうのかな。 ねぇ、零。零はどう思う? 私たちが紡いだこの夏の思い出も全部、紛い物だと言うのかな。 窓の向こうに続く海が、今は少しだけ狭く感じる。 車体が駅に滑り込んで、少し乱暴にドアが開く。 誰も乗ってこないし、降りもしない。 いつの間にか、終点まであと3駅だ。 ふと、零の頭が私の肩にあたる。 さらさらとした前髪がかかって、心の奥が軋む。 ねぇ、やめて。 そんなことしないで。 零のぬくもり、それを私に与えないで。 壊れないように壊さないように、必死で隠してきたのに。 私たちって友達だよね。 私の目から水が一滴、零れ落ちる。 零の頬にあたって、流れる。 ごめんね、許して、零。 零の睫毛がゆっくり動いて、目が開いた。 「ん?」 眠そうに声を上げてから、私の肩に頭があることに気付く。 「あっごめんね、(ゆう)」 「全然いいよっ」 寂しさに浸っていたことを悟られないよう、精一杯笑顔を返す。 「もう着いちゃうね」 「うん、寝てたらあっという間だった」 やわらかい笑顔を、私に向ける零。 そんなに優しい顔で、私を見ないで。 まもなく、終点。 不意にアナウンスが入り、心に緊張を灯す。 終わりはもう目の前だというのに、何も言わずに電車を降りた。 改札を出ると、意外に涼しい外気に触れて、肌が震える。 どうしよう。 このまま何も言わずに終わったら後悔するかな。 それとも、このままの関係を続けるのが最善なのかな。 連絡が、取れないわけじゃない。 メールも、電話だってあるけれど… 横を見ると、夏の暮れの夕陽に染まる零の横顔があった。 澄んでいて幼気な、瞳に映る夏の残像。 あぁ、やっぱり無理だ。その二文字は、私の口からは言えない。 「あのさ、零。前に、夏は不思議、夏のことはなんだって美化されて、綺麗に残るって言ってたでしょ?」 「あぁ、そんなこと言ったっけ」 零はふふ、と口元を和らげて、これまでの会話を一つ一つ懐かしむように笑う。 「この夏の私との思い出も、今日のことも、全部そうなんだと思う? 後から残るのは昇華された綺麗なもので、本当はそんな良いものじゃないって」 最後だという事実にかこつけて、思っていたことを口にしてみた。 「え、そんなこと考えてたの?そんなわけないでしょ。私たちのつくった思い出はそのまま記憶になるんだよ。夕との二度とない、この夏の思い出」 零の背中に腕を回すと、とめどない涙が零れてきて止まなかった。 あぁ、零のその香り、柑橘系の洗剤の香り。 好きだな、やっぱり。 あたる零の体温が愛しい。あぁ、人ってこんなにあったかいんだ。 思わず、零の頬にそっと唇をあてた。 照れたように、赤みを帯びる肌。 「何、急に。どうしたの?」 ちょっと戸惑いつつも、零はいつもの優しい声だった。 私は少し安心する。 「あはは。なんかね、そういう気分だったの」 「ねぇ零、私零のこと大好き」 なぜだかするすると、言葉が口を滑り落ちた。 「私も夕のこと好きだよ」 「うん、知ってる」 へへ、と笑う零。 好きだよ、本当に。どうしようもないくらい。 太陽が沈んでいく。過ぎ行く夏を惜しむように。 零の影も、動いていく。 「ばいばい。また会おうね!」 「うん、またねっ」 「ありがとう、私本当に楽しかった。」 あんなに想っていたのに、最後の時に出る言葉は結局ありふれたものばかり。 でももう、それでもよかった。 いつまでもいつまでも、私たちは手を振り続けた。 私は零が見えなくなっても、消えたところを見守っていた。 ねぇ、零。 新しい街で、素敵な人に出逢うんだろうな。 零、好きな人欲しいって言ってたもんね。 零ならすぐに彼氏ができるよ。 だってこんなに優しくて笑顔が素敵な人、私見たことない。 私、聞かれても恋なんてしたことないよってはぐらかしてきたけどさ。 またいつか会った時、私の初恋を聞いてね。 零にはちょっと、恥ずかしいかもしれないけど。 じゃあ、またね、零。
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