2人が本棚に入れています
本棚に追加
第二話 ビブリオマニア達
『翡翠館』には、今日もヒマ人たちが集っていた。
「喜八、なに読んでんの」
「『五月雨心中』」
「お前、耳年増になりそうだな」
「ほっといてくれ。……お前はなにを読んでんだ?」
「ん? 『巨人グリーガンの冒険』」
「児童書じゃねえか」
「ほっとけ。漢字が多いと俺眠くなるんだよ」
「雪田先輩はなにをお読みですか」
「『溺れる人魚』だ。ファンタジーだよ。大人向けだけど」
「人魚なのに溺れるんスか」
「タイトルだからね。たぶん深い意味は無いよ」
「ちなみにおじさんが読んでるのは『笑う看護婦さん』だからね」
「入ってくんな、おっさん」
「開始二秒でナースさんが制服脱いじゃったよ。ほぼ意味ないと思わねえ?」
「……図書委員権限で追い出しますよ」
「悪い、悪い。黙って読むから」
「職場で官能小説読んでやがる……」
白銀は、かなり引いていた。喜八は本に集中していた。雪田はぼんやりと、奈良を眺めていた。奈良が雪田に目を向ける。視線が合うと、奈良は口の端を上げて見せた。
雪田は、頬を若干紅くし、奈良から目を背けた。
「……?」
それに気づいた喜八は、なんなんだ、と疑問に思ったが、すぐに読書に戻った。
喜八と白銀は、窓からオレンジ色の光りが差し込むのを見ると、そろそろ帰るか、と二人して翡翠館を出た。
「あ」
「なんだよ」
「借りてる本、忘れた」
「行ってこい。待ってるから」
「悪い」
喜八は慌てて翡翠館へ戻った。
今時自動ドアでないガラス製の扉をそっと開け、中をのぞく。
本は、テーブルの上にあるはずだった。
――ところが。
それよりも先に。
「ん……」
三人掛けの、大きめのソファー。
そこに。
肌をさらした、雪田がいて。
その上に、半裸の奈良が、覆い被さっていた。
「あ……」
その光景を見てしまった、喜八は小さく声を上げ。
そろそろと、翡翠館を出た。
気づかれなかった、と思う。
入り口と、ソファーがある読書席には、距離があったから。
「あれ? 本は?」
喜八は、白銀に問われ、自分が本を取りに翡翠館に戻ったことを思い出した。
「あー、なんか、なかった」
「なかった? 雪田先輩が預かったのかな」
「別にいいよ。そこまで面白い本じゃなかったし」
「お前がそれでいいならいいけど……。帰るか」
「うん」
喜八は、なんでもないように、帰り道の先を歩く。
先ほどの光景を、思い出さないようにする。
しかし、まぶたの裏に焼き付いて、離れない。
――あの二人、あんな仲良かったんだな。
居候と家主のような関係だと思っていた。居候が奈良である。
『翡翠館』は、喜八にとって、第二の我が家のようなものだった。
それくらい、居心地がよかったのである。
優しい先輩と。
面白い教師と。
気心の知れた幼なじみ。
それと、大好きな本たち。
――いつも、俺たちが帰ったあと、してたのかな。
そこに思い至り、気づかなければよかった、と後悔した。
先輩が手をついたのはどの本棚だろうとか。
先輩が身を預けたのはどのソファーだろうとか。
無限に想像が湧いてくる。
「わっ、雨降ってきた。ついてねえなあ」
白銀の声で、我に返る。
空を見上げると、無数の水滴が顔を打った。
「……喜八?」
白銀は、喜八が空を見るばかりで一向に動かないので、声をかけた。
喜八は、顔をこすると、白銀の方を向いて、彼にしてはめずらしく笑った。
「帰るか、白銀」
「……ああ」
白銀には、喜八の目が濡れて見えた。
だが、雨粒が目に入っただけだろうと、気にもとめなかった。
雨は、なにもかもをかき消した。
翡翠館での情事の音も。
喜八の嫉妬の涙も。
最初のコメントを投稿しよう!