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「お前は、誰だ。」
よく見ると顔つきも違う。体もチビだったあいつとは程遠い、近所の爺婆から餌をねだっているのだろうと易々と想像がつく。瞳だけは、あの頃のように澄んでいたから、縋った。
耳の先から尾の先まで黒曜石のような輝きのある黒だったあいつとは、違うのだ。夏の宝物だった黒猫とは違うというのだ。
「友だちが、見つからなくて」
そこで止まる。子どもの頃は、よく猫に話しかけていたが、今では少し気恥ずかしい。誰もいない家を我が物のように振る舞い、にゃあ、と呼応するように鳴くから、つい続けてしまう。
「あいつは、元気にしているか」
祖父母は、ある寒い冬の日、崖で足を滑らせて死んでしまった。呆気なく、この家は無人になった。猫がどうなったのか、村の人も誰も知らない。元々野良で、人に慣れていなくて、窓や玄関が開いていても外に出ることはない猫だった。加えて、俺や両親以外の人間が家に入ると忽然と姿を消して祖父母にも見つけられない奴だった。祖父母の葬儀で集まった大人たちが探したけど、見つかることはなかった。俺はきっとどこかで元気にやっていると思い込んだ。
高校3年生になって、1人でこの家の扉を開けた時は驚いた。変わらない姿で猫がいたから。ああやっぱり、いなくなってなんていなかったんだと安堵した。
その猫の尾の先が白いことは見ないフリをしていたんだろう。自分でも驚いたが、ある時ふっと目に入って、「ゴミ」かと思って切り落とそうとしたら前足で引っ掻かれた。その時の傷が今も残っている。酷いことをしようとしたのだ、もう消えないだろうと思う。
大好きだった祖父母がいなくなって、猫までいなくなったと信じたくなかった幼少期の夏。体はチビじゃなくなって、声も変わってしまっても、ずっとあの夏を想っていた。本当に時間は平等なのだろうか。
猫が鳴いた。蝉が鳴く夏空に、雪玉のような尻尾を振って歩き出す。
いた。縁側の下。よくじいちゃんと麦茶を飲んだ軒下に、ちゃんといた。暗くてもわかるわずかな光を吸ってそこにちゃんといて俺を待っていた。
鼻を啜りながら、僅かな隙間に体を捩じ込んで、脱衣所にあったタオルで包む。たまにこのタオルの下に潜り込んで寝ていたんだそうだ。俺や両親がいた時は、一度もその姿を見ることがなかったけど。
時間は平等だから、怖がることない。
大好きだったじいちゃん、怖いよ。ずっとあの夏のままでいたかった。ただ猫を追いかけるだけの夏が大好きだった。
「俺、これからは、ここに逃げられないんだ。頑張れるかな。」
それでもチビ同士だった俺たちは、いくつもの夏を超えて、やっと前に進むことができる。
昔、書くのが嫌で隙間に投げ込んだノートは、ボロボロだったが読むことはできた。よく猫に構っては相手にされなかった少年の、ありふれた絵日記だ。
暑い紫外線を浴びながら、火照った土の香りがする。どちらかの猫が、にゃあと鳴いた。餌を強請る時の甘えた声。世界にたった一つ、俺たちの夏の終わりを告げた。
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