えびいろの家

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えびいろの家

 毎年、夏になると母の実家に遊びに来ていた。新幹線と電車を乗り継ぐほど遠くて、植物の匂いだろうか、家でも学校でも嗅がない匂いに最初は少しくらくらした。それでも、家と学校の往復だった日常から非日常に来たようで心が躍る。幼少期の夏の思い出なんてその時のことくらいしか思い出せないが、それでも楽しみだった。  本数の少ないバス停の前で手を振って迎えてくれるじいちゃんに飛びつく。バスではなくじいちゃんの車から見る景色が幼い目には特別なもののように思えて、何もないと笑うじいちゃんの言葉にむくれたりした。疲れて眠る母のスカートの裾を掴んで、意地でも何もない景色に宝物を描いていた夏だった。  祖父母の家には猫がいる。  近所の野良猫よりも小柄な体。艶々の黒毛、大きな緑の目、近寄るとチビのくせにフンと鼻を鳴らして廊下をスタスタ歩き階段を駆け上がっていく。元が野良だからあまり人慣れしていないその猫は、餌をあげる時だけにゃあと祖母に甘えた声を出し、ちゃっかり者めと祖父にグリグリと頭を撫でられていた。若干乱暴とも言えるその手をいつも不満げに噛んでは笑われていた。  大人ばかりのこの家で、チビ同士仲良くしたかった俺は何かと構いたがったが、緑の瞳を煩わしげに細め、細い尻尾を吊り上げてまた跳ねながら2階に行ってしまう。猫と友だちになろうと本気で信じていた幻想を呆気なく砕いて来た幼少期の思い出は夏の雲のようにはっきりと残した。  大学生になっても、俺は夏になるとその家に足を運んでいた。  新幹線の切符はそろそろ買い慣れたし、電車も迷うことがない。もう駅に着いても迎えはないので、バスの時間を入念に調べた。バスの車窓から見える景色は変わりないが、祖父の車から見える景色とは別物で眺める時間も短く寝入ってしまう。  不思議だが、ここでいつも同じ夢を見る。  誰もいないその家に、目が合うとフンと鼻を鳴らして去っていく猫。あの頃と同じ黒々とした毛並み、濁りのない緑の瞳、若々しい足取りを1人で眺めるのは何度目だろうか。  荷物をぞんざいに置いて座り込むと、猫がシャアと威嚇する声が耳をなぞる。祖母には甘えた声を出していたというのに、何年経ってもつれないその友人の頭を撫でたら噛まれた。痛みに歯を食いしばり、畳を蹴りながら走っていく後ろ姿を見る。  逃げないよう両前足で押さえ込んで付けられた歯形からは血が薄ら滲んで、玉になり、落ちていく。これで何度目だろうか。  近くのスーパーでおばちゃんに挨拶しながら買ったドライフードを、紙皿に注いでやると静かに口をつけ始める。普段どうやって食べているのか疑問に思いつつも、この時だけは撫でるのを許してくれる丸い背中を軽く撫でる。耳の先からつま先まで黒いのに、細い尻尾の終着駅だけが雪のように白い。無意識に掴もうとしていたのに気づかれたのか、やはり触られることに抵抗があるのか、食べながらも不満げに唸って来たのでやめた。  幼少期よりも格段に関係が悪化している友人は、祖父母の家にいる間ずっと何かに苛立つように睨みつけ、たまに足に絡みついて歯形を残していく。  楽しみだった祖父母の家に住む猫。俺はこの奇妙なやり取りがいつまで続くか恐れていた。この特別な時間がいつまでも続いて欲しいと、願ったことがない子どもなんているだろうか。  しかし、いつまでもいつまでも手をつけず、罪悪感と焦燥感が時を駆り立て31日を呼ぶようにこの時間にも終わりは訪れようとしていた。  時間は平等だから、とじいちゃんはいつも言っていた。  夢を見た。バスでも見た。ここに来るといつも見る夢だ。  黒猫がじっとこちらを見ている。真っ暗な視界に緑の瞳。暗いというのに「黒」猫だということはわかる。闇にも溶けない艶々な猫毛は、針のように逆立ち俺をずっと追い立てる。目線は同じくらい。階段の中腹にいるのだろうか、俺は玄関でその姿を見つめ返している。追いかけると逃げるからだ。しばらくすると声が聞こえる。何度も何度も、猫は目の前にいるというのに、声が聞こえるのは、下。  時間は平等だから、の先はなんだっただろうか。  目を覚ます。  黒猫の名前を呼ぶ。餌を持って、紙皿も持って、キシキシと鳴る廊下を探し回る。家中どこを探してもいない。  この夏が終わってしまえば、俺は学生じゃなくなる。入社して、仕事して、寝るの繰り返し。夏休みはもう、来ない。やり残したことがないだろうか、と自分に問いかける。目を逸らしていた絵日記は、どこにしまっただろうか。  誰もいないこの家のどこに、しまわれただろうか。  猫が見ていた。10年前と同じ、黒々とした毛、濁りのない緑の瞳。先だけが白い、尾。  去年か一昨年、俺が切り落とそうとした雪。
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