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最後の生地をフライパンへと流す。甘い匂いと珈琲の香りが混ざり合う。
「おーい、そろそろ出来るけど」
ダイニングテーブルにはマグカップがふたつ。その隣、ドリッパーの下に置かれたサーバーには二人分の珈琲ができている。が、目当ての人物は見つからない。
「あれ?」
どこいった? 視線を巡らすと、ベランダで何かが動いている。とりあえず目の前の生地をひっくり返し、火を消してから離れる。
窓を開ければ、ベランダにはキャンプで使う簡易テーブルと椅子が置かれていた。物を捨てられない俺が持ってきたやつ。置き場に困ってベランダの隅に寄せていたのだが。
「何してんの?」
「外気持ちいいから、こっちで食べよ」
目の前が公園なので、景色に圧迫感はない。
遠くの山が色づき始めたのがわかる。浮かぶのは小さな苦味と懐かしさ。名前を揶揄われ続けたこと。そんな思い出を「キレイな名前だな」と塗り替えてくれたこと。ふわりとした温かさが胸を満たしていく。
秋の柔らかな風が頬を撫で、間に置かれたホットケーキの上でバターが形を変える。
「なんか聞きたいことあるんじゃないの?」
マグカップに口をつけたタイミングで問いかけられる。
そのすべてが自然なことのように感じられ、息を吐き出した。きっと大丈夫。コク、と熱い液体を体に落としてから口を開く。
「家族のこと、聞いてもいい?」
一瞬大きくなった瞳が、ゆっくりと細められていく。
「うん、聞いて――」
***
ふっと瞼を上げる。リビングのソファで寝落ちていたらしい。壁の時計は午後四時を示していた。あれ、と部屋を見回すが姿が見えない。
「起きた?」
カラカラと窓が開き、少し冷たい風が流れてくる。ざわざわと葉が擦れ合う音も。
「うん」
「じゃあ、ビール持ってきて」
「りょーかい」
冷蔵庫からビールを取り出す。表面には黄色、オレンジ、赤と色づいた葉が舞っている。遠くの山も公園から伸びる木々も同じ色を纏うようになった。
「俺の季節だな」
キッチンを出ると、ダイニングテーブルに置かれた書類が目に入る。「更新のおしらせ」と書かれたそれに、なんの躊躇いも迷いも生まれなかった。これからもこの日々が続くのだと改めて思い、ビールをその場に残して自分の部屋へと向かう。記念日でも何でもない。高級なレストランでもなければ、美味しい料理もない。でも、だからこそ「今」なのだと思った。
ポケットを膨らませて戻れば「どこまでビール探しに行ったんだよ」と笑われる。
「まあまあ」
秋模様の缶をテーブルに置き、「ほい」とお菓子でも渡すみたいに差し出す。
「え、なに?」
不思議そうな顔で受け取り「誕生日じゃないし、クリスマスもまだだし、ほんとに何……」ブツブツと呟きながら、リボンを解く。
小さな箱の蓋を開けると同時、見開かれる目を綺麗だと思った。
「責任、取ろうと思って」
二年前の秋、まだここに引っ越す前。冷蔵庫にある野菜を思い出し、焼きそばを作ると言ったとき。
――そのやばい野菜を食わせるのかよ。
――ギリいけるはず。
――いけなかったら責任取れよ。
「あれは、死にかけの野菜だって、言うから」
「うん。そうなんだけど。でも、考えたんだ。もしも病院に行かなきゃならない事態が起きたら、どうすればいいのかって」
家族と会わせたくないのは、自分が会いたくないからだと言っていた。
子どもである自分よりも仕事が一番。世間的な付き合いも仕事上のもの。実の母親との思い出はあるけれど、それも小学生になる前のこと。離婚したあとは会っていない。父親の再婚相手を「母」だとは思えなかった。好きなのは父だけで、自分ではないとわかってしまったから。
――そう、教えてくれたからこそ。
「ただ好きだから一緒にいるんじゃなくて、ちゃんと一緒に生きていきたい。嫌なことも辛いことも、好きじゃないって思うところも全部ひっくるめて一緒にいたい。家族になりたいんだ」
「欲張りすぎじゃない?」
ふっと笑いに震える手の上、箱から指輪を取り出す。
「敬一」
一音一音、確かめるように名前を呼び、ゆっくり指に通す。夕陽になる前の優しい光が白く反射する。
「……キレイだな」
滲むように自然と発せられた声に、トン、と心臓が跳ねた。好きではなかった自分の名前を同じように言ってもらったことを思い出す。そのときから少しずつ作られていたのだろう。ゆっくり時間をかけて。胸の奥で形になったそれを、そっと取り出す。二年前は選ぶだけで口にはしなかった言葉。
「――愛してる」
声は僅かに震えた。でも、いい。みっともなくても、格好悪くても、もういい。写真に刻まれたそれが消えることはないのだから。
「これからもずっと。そばにいて」
「……うん。ありがとう、紅葉」
今の自分の顔は、名前通りの色をしているのだろう。
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