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使命
何だあれは……。ファウストゥルスは思わず息を止めた。視線の先には確かにいた。ただ、その光景の異様さに、彼は暫し動くことができなかった。
目をつむり、深呼吸したファウストゥルスは、ゆっくりと目を開く。目の前の信じがたい事実を受け入れようと必死になった。
――赤子が二人……双子なのか。
ぼろぼろの布切れを僅かにまとった半裸の赤子は、懸命に乳を吸っている。二人の赤子は空腹を満たそうと、必死に乳にしゃぶりついている。生命力の根源が確かにそこにあるように感じられた。
広い丘で妻と二人、ファウストゥルスは豚や羊を飼って生活していた。青年期を過ぎたばかりといった若者で、勇敢さよりも優しさに秀でた、どこか頼りない印象を与える男であった。
この辺りはラテン人の都市国家であるアルバロンガの勢力圏だが、建国から四百年が経つこの国は周辺諸国との小競り合い程度はあるものの、領土を拡げるために積極的に外に打ってでることが少なかった。大きな戦がなく、治安は安定していたということだ。戦になれば兵士として駆り出されることになるだろうが、平時ではその心配もない。緩い統制下において、ファウストゥルス夫婦は、仲睦まじく平穏に暮らしていた言える。
そんなある日、朝目覚めた妻ラレンティアが、
「夢の中で、神様が私たちに使命を与えなさった」
と、何かに取り憑かれているかのような必死さで、夫の肩を強く揺すりながらそんなことを訴え続けた。
いったいどうしちまったんだ――。
ラレンティアはファウストゥルスよりも少しだけ齢が上なこともあり、普段はしっかり者で姉さん女房肌を吹かすことが多い。おっとりして何事も無頓着が過ぎる夫を、手綱を締めたり緩めたりするのがラレンティアの役目だった。
突拍子もないことを言い出して困らせるのはいつも自分の方なだけに、妻の豹変におろおろと狼狽えるしかなかった。
「あんた、急いで澄んでいない川に向かっておくれ。川に突き当たったら、そこから左手にある深い森の中を探すのさ」
ラレンティアは反応の鈍い夫に繰り返し言った。
「森の中にある薄闇を探しておくれ。そこに私たちの使命があるんだよ」
急き立てられるように、ファウストゥルスは妻に送り出された。
仕方がねえ。何のことだかわからねえが、行くだけ行ってみるか。
ラレンティアはこの辺りでも指折りな美しい娘だった。利発的でもあり、よく気がきくと評判の娘で、自分にはもったいないと常々思っている。妻の言っていることの意味は理解できなかったが、彼女の機嫌を損ねて捨てられてはたまらない。ファウストゥルスは妻が準備した数日分の食糧を背中に背負い、渋々出発した。
澄んでいない川と呼ばれる大きな川があることは知っているが、その方面には行ったことがなかった。どれだけ歩けば川に着くのか、そこから妻の言う森までどのぐらいかかるのか、全くわからない。不安しかなかった。ファウストゥルスは自分の目的もよくわからないままに、とにかく歩いた。明るい間はひたすら歩き、日が暮れれば野営する。妻が差した方角に、馬鹿の一つ覚えのように進んだ。
出発して数日後、ファウストゥルスは眼前に広がる大きな川のほとりに到着した。妻に従順な夫は、言われた通りに向かって左に方角を変え、道なき道を突き進んだ。
澄んでいない川からさらに数日間我武者羅に進む彼の周りが、いつの間にか木々や草花で覆われていき、気づけば藪の中に身を投じていた。それでもファウストゥルスは歩を止めなかった。このあたりはこの男の純粋な面が如実に表れたと言ってよいだろう。
やがて、ファウストゥルスは前方にそびえ立つ岩壁に、ここまで続けてきた直進を妨げられた。
あれま、右か左かいったいどちらに行けばよいかのう。そんなことを考えながらキョロキョロと辺りを見回したファウストゥルスは、緑のカーテンで覆われた岩壁の中に、人が入れるぐらいの洞穴を見つけた。
陽はまだ高く、休むにはまだ早い時間だったが、彼の体は自然に洞穴に向かっていた。季節は夏である。額に滲む汗を拭ったファウストゥルスは、洞穴の中で暫し涼みたいと思った。彼にとっては、急ぐ旅でもあるまいという程度のことだったのだろう。
洞穴の中は外の光が奥までなんとか届く程度に狭いが、入口と比べて横には広さがあった。洞穴に入ったファウストゥルスは、薄闇に目を凝らした。
何かが動く気配を感じとったファウストゥルスの全身に緊張が走った。
でかかった悲鳴を、両手で口を塞ぐことでなんとか押さえ込んだファウストゥルスは、異様な光景にまず我が目を疑った。
何だあれは……。
洞穴の左奥の窪みの薄暗い空間に、巨大な狼が佇んでいた。彼が知っている狼の体躯と比べて倍近くはある。その巨体にまず驚き、次にその狼の乳にかぶりついている二人の幼子を見て、彼の思考は暫く停止した。
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