終わらない夏

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 夜空に、夏の大三角形がくっきりと広がっている。  月はなく、星ばかりが藍色の中にぶちまけられて、忙しなく瞬いていた。 「さあ、いこう」  ロビンが振り返って、まだ幼さの残った日に焼けた手を僕に伸ばす。灰青の髪が、生温い風に煽られて靡いていた。  その背中には、羽化したばかりの黒褐色の翼が折りたたまれている。 「どこへ?」 「どこでもいいよ」  うっすらとした微笑みを唇に貼り付けてそう言ったのに、翌日、彼はいなくなっていた。部屋は空っぽで、痕跡もなく消えていた。彼の存在を覚えていたのは、僕だけ。  窓の外には翡翠色の海が、白く泡立って波音を響かせている。僕はレモネードソーダのストローを噛みつぶして溜息を零した。白い部屋は無駄に眩しく蒸し暑くて、開いた窓から流れ込む風は気怠く渦を巻いて澱むだけだ。  寄せては返す波を眺めながら、あの日のロビンの言葉を思い出す。 「なあ、ツバメ。僕、もう、いかなきゃならない」  幼い眼差しに強い光を湛えて、僕を見据えたロビン。  翼を持つ種族の僕らは、身体の組織が成長して大人になる準備が整うと、羽化をする。僕よりも身体が小さかったはずのロビンは、夏の始めにあっという間に背が伸びて僕に届き、真夏の星月夜に羽化をした。硝子みたいに繊細だった声も枯れて、すぐに太く強くなり、夜を越えて歌声を響かせた。  何も変わらないのは、僕だけ。  ロビンは翼を得て、ひとりで、何処かへ行ってしまった。  いつかまた会えるのだろうか。それだけ、伝えてくれたらよかったのに。また会えると信じて、僕はどれだけ時が過ぎたのかもわからずに、波の数を数えている。  肩甲骨の間の皮膚はまだ羽化する疼きもみせず、背丈も変わらないままでいる。ツバメは夏を告げる鳥なのに夏になってもまだ飛ばないのか、そう揶揄ってきた級友たちも、いつの間にか巣立っていった。  僕の住む『EI』と呼ばれる区画は、羽化する種族の子供たちを集めた巨大な建造物で構成されている。学校は勿論、全寮制の居住区域や商店、娯楽施設に飲食街もあり、大きな街のようなものだ。子供たちはEIの中で、安全に快適に暮らすことができる。外の人たちにとって、僕らのように翼を持つ種族は好奇と嫌悪の対象であり、見た目以外は何にも変わらないはずなのに、差別されたり不必要に持て囃されたり、時には誘拐されて売買されたりもする。  外は危険だと知っているはずなのに、ロビンは、たった独りで何処かへいってしまった。  眩い空の中を鳥の群れが滑っていき、不意に僕は、ロビンが独りではなかった可能性に思い至った。仲間が居たのかもしれない。例えば、いつの間にか減ってしまった級友たち。彼らもまた、羽化を迎えて、ロビンと共に外に旅立ったのだとしたら。  氷が溶けたレモネードソーダのグラスの表を雫が滑り落ちて、僕の手を濡らした。耳を澄ませば波のさざめきだけが響いて、他には何の音もしない。まるでこの建物には、僕が独り、残されているみたいだ。  振り返って白い扉を見る。  あれを開ければ、いつも通りに廊下を走り抜ける級友たちの喧噪と、吹き抜けから見えるずっと下のフロアのざわめきが駆け上がってくるのはわかっているのに、僕は膝を抱えて小さく丸まった。卵に戻ってしまいたい。僕はきっと母の腹から産まれてきたはずなのに、小さくて白い丸く閉ざされた空間が、ひどく懐かしかった。  頭を膝の間に埋めてじっとしている僕の耳に、大勢の人たちの気配がしていた。それは卵の殻越しに聞いているみたいに、近くて遠い場所だった。  夏の陽射しが、容赦なく僕の腕を焼く。  ロビンと違って、僕の腕はどれだけ夏の陽射しに炙られていてもなまっちろいままだ。あの小麦色の腕が羨ましかった。窓辺で冷えたレモネードソーダを掻き混ぜながら、ぼんやりと頬杖をつく。  がちゃりと背後の扉が開いて、僕は飛び跳ねて振り返る。  白い扉の隙間から、鋭い目が僕を睨んでいる。 「まだいるのか」  男が厭そうに顔を顰めた。首から下がっているのは、EIの居住区域の職員のIDだ。僕は鼻を鳴らして背を向ける。この部屋は、僕の部屋じゃない。ロビンの部屋だ。  何の痕跡もなくいなくなってしまった彼のことを、施設の職員も当然覚えていない。だから、僕は、勝手に空き部屋を占拠している不良少年という訳だ。文句の一つも言いたくなるのはよく判る。でも、僕がこの部屋を明け渡してしまったら、ロビンがいた証拠はなくなってしまう。何度も部屋の隅々まで探したし、そもそも作り付けの家具以外には髪の毛一筋すら残されていなかったのだけれど、あまりにも綺麗に片付きすぎていることが却って不自然なのだ。つい数時間前まで誰かがいた跡を、執拗に消したみたいに思える。だとしたら、誰が、なんのために。片付きすぎている事が、ロビンがこの部屋にいた証拠に違いない。  だから、僕は、ここを意地でも出て行かない。  彼が戻ってくるまで。  彼が、いなくなった理由を僕に話してくれるまで。  だって、僕に伸ばされた手を、あの時、僕は取り損ねてしまったのだから。 「対象確認。外見の特徴から、ツバメと思われます」  閉じていく扉の隙間から、男がどこかへ通報する声が聞こえた。 「逃げるものか」  小さな軋みをあげて閉じた扉を、僕は睨み付ける。白い扉の向こうの微かなざわめきが、不意に大きくなった気がした。  小さな話し声で目が覚めた。  はっと顔を上げる。いつの間にか眠ってしまったみたいだ。開いた窓から波の音が忍び込み、僕はそっと首を振る。きっと波音が夢に溶けたに違いない。空には撒き散らされた星々が煌めいていた。額にうっすらと滲んだ汗を、手の甲で拭う。窓辺に置いたグラスの中で、レモネードソーダの気泡がぷつぷつと鳴っていた。  小さく息を吐いて、身体を起こす。また、ひそめた声が扉の向こうから聞こえた。  ぎい、と背後で響いた音に、身を翻す。  僅かに開いた隙間から、光の帯が無遠慮に闇を切り裂いた。目を眇めたが突然に照らされたせいで視界が効かず、立ち尽くす僕に向けられた光が、悲鳴に似た声と共に揺れる。ばたばたと逃げ去る幾つかの足音に茫然としていると、ゆっくりと扉が軋んで開いた。  入り口付近を迷うように彷徨っていた光が、僕の脚を捕らえて這い上ってくる。 「びっくりした。ここには誰もいないって聞いていたから」  戸惑った声が、そう呟く。僕の胸元で止まった光のおかげで、今度は僕からも相手が見えた。同じくらいの年頃の少年が、部屋の境から僕を見ていた。 「ここだろ『終わらない夏の部屋』って」  少年の青い目が、窓の外の星空に向けられる。彼の背中には、白い翼が揺れていた。 「君もゴーストなのか?」 「なんだよ、それ」  眉を顰めた僕に、少年は小さく噴き出した。 「ひょっとして、君も肝試しにきたのか。それともサボりにきたの? だとしたら部屋を間違えたね。羽化もしていないなら、まだ新人なんだろ」  ずけずけと不躾に質問を重ねる少年を睨み付けると、彼は肩を竦めて呆れたように僕を見返す。 「知らないなら教えてあげるけどさ、この区域に残ってるのは『ゴースト』って呼ばれる偏屈な古参だけだよ」 「は?」 「ここは『ネバーランド』さ。成長しない子供たちが逃げ込む隠れ家っていう意味だよ」  にやりと笑った目が、お前もそうなのかと揶揄しているのに気がついて、僕はかっとなって一歩踏み出す。少年は、おっと、と掌をかざして距離をとった。 「ネバーランドの一部屋に、終わらない夏の部屋がある。EIの七不思議のひとつをまさか知らないのか」  初耳だった。まさか、ロビンの部屋がそんなふうに呼ばれて、好奇の対象になっているなんて。 「どうしてそんな噂が」 「なんでって、決まってるじゃないか」  そんなことも知らないのかと、眉をひそめて少年は僕を見た。 「この部屋の少年が、殺されたからだろ」 「え」  びくりと、身体が震えた。 「なあ、君、先からその腕はどうしたんだ」  少年が訝しげに問いかける声は、ノイズに呑まれて頭にまで届かなかった。  ロビンが、殺された?  でも、それならば、突然に姿を消した理由も、跡形もなく彼がいた全てが消えていた訳も説明がつく。 「なあ、君、名前は? 見ない顔だけど、どこのクラスだ」  光が僕の全身を忙しなく照らし、首元に結んだリボンで止まる。 「もしかして」 「おい、お前、こんな時間に何をしているんだ」  突然に廊下の奥から響いた声に、少年ははっと背後を振り返り、光を消すと脱兎のごとく走り出した。  明かりを失った部屋は闇に呑まれて、僕は、閉ざされた白い壁の中で、波の騒めきだけをいつまでも聞いていた。  ロビンが殺された。  少年が残した言葉が、僕を苛む。  もし、本当だとしたら、僕になにができるのだろう。  証拠が何も残っていないのは、EIが消したからではないのだろうか。たったひとりの犯人に、EIに暮らす住民の失踪を隠し通せるはずがない。ましてや、消えたのは羽化する種族の子供なのだ。職員すら、ロビンのことを知らないと言った。それは、口裏を合わせているからなのだろう。ロビンという存在しない子供がいたと騒ぎ立てている奴は、僕一人だというわけだ。  それに、少年はおかしなことを言っていた。  ここは『ネバーランド』と呼ばれていて『ゴースト』という変わり者たちしか残っていない、と。次第に減っていった級友たちは、羽化して旅立ったのではなく、僕という異物から隔離するために、少しずつ居住区域を移されていっただけにすぎない。  だとすれば、残っているゴーストたちに聞けば、ロビンのことを覚えている者もいるかもしれない。ここはEIから見放された変わり者の集まりだというわけだ。  窓の向こうには、眩しい夏の青空が広がっている。  僕は深く息を吸い込む。  ロビンのために、出来ることをしなくてはならない。  ざざっと、ノイズにも似た波の音が、夏の陽射しが溢れる白い部屋を乱した。  レモネードソーダを飲み込んで、僕はゆっくりと立ち上がる。  この部屋を出て、ゴーストたちに逢いに行く。  だが、ここを開けている間に、職員たちが来てしまったらどうしよう。封鎖されて、僕は二度とこの部屋には戻れないに違いない。この間きたあの職員は、僕の名前を知っていた。どこかに通報していたようだから、EI全体に、僕がここを占拠していることは伝わっているのだろう。廊下に見張りやカメラがないとも限らない。なにせ、彼らは、大きな秘密を隠そうとしているのだから。 「まずは、味方を増やさなきゃ」  ふと、肝試しに部屋を訪れた青い目の少年を思い出す。彼ならば、手を貸してくれるかもしれない。少なくとも、僕よりは他の子供たちの様子や、このネバーランドについても詳しかった。 「それに、羽化もしていたし」  僕の背中は、未だにしんと、静まりかえっている。 「どうして名前を聞いておかなかったんだろ」  今さら悔やんでも仕方のないことを奥歯で噛んで、僕は洗面台に向かう。  開いた窓から響く波の音が、今日はやけに大きかった。部屋全体にごうごうと広がり、白い部屋の中が揺らぐみたいだ。目眩を覚えて、額を押さえる。真っ白な陶器の洗面台は妙に眩しく、のろのろと視線を上げて、僕は呼吸を止めた。喉が痙攣して、声が出なかったのは、幸いだったのだろう。心臓が跳ね上がり、鎖骨の真ん中で、ずぐん、と痛んだ。  薄黒く沈んだ鏡の中に、見知らぬ男の姿が映った。  波音がいっそう大きく僕を呑み込み、殴られたように蹌踉めいた僕の視界から、男は消えた。伸ばしたはずの左腕はどうしたわけか指一本動かぬまま、僕は床に倒れ込む。  茫然と見開いた視線の先で、暗く濁っていた鏡が、今は青空を映して明るく輝いていた。  どれだけ座り込んでいたのだろう。  扉が軋む音で我に返り、咄嗟に身構える。左腕はぶらりとさがったままで頼りなく、右腕をついて立ち上がる。鏡を見ぬように目を反らしたけれど、視界の端を掠めたのは確かに僕の姿だった気がした。  僅かに開いた隙間から、青い視線が覗く。すばしこく動く目が僕を捕らえて、笑ったようだった。 「やあ」  扉を開けて入ってきたのは、先日の少年だ。 「職員が見張ってるかと思って、びくびくしたよ」  猫みたいにするりと滑り込むと、慎重に素早く扉を閉ざす。 「どうして」 「どうしてって、君がツバメだろ。だと思った。白いシャツに黒いブレザー、赤いリボン。名前の通りだ」  にっこりと笑った顔は親しげだった。ロビンを思い出させる、人懐こい笑顔。喧嘩っ早くて、一度火がつくと、止めるのが大変だったロビン。 「ねえ、ロビンのこと、何か知ってるのか。だったら、教えて。彼が殺されたって、どういうこと」 「君がツバメなら、知ってるはずだろ。どうしてここの部屋の住人が殺されたのかなんて」 「知ってるもんか。ロビンは、突然にいなくなったんだ。羽化して、翼を得て、もう行かなきゃならないって、僕にそう言った。それなのに、突然、消えた。僕に『いこう』って手を差し伸べてくれたのに、僕はその手を取らなかった」  翼のない背中が、ひどく痛んだ。抱え込んだ左腕に目を向けて、彼はふと表情を消す。 「その腕」  つい、と彼の華奢な指先が、動かない僕の腕を指す。 「それ、ロビンの呪いだろ」  にい、と唇が吊り上がる。  怯えた僕の耳元に唇を寄せて、ひそめた声が囁いた。 「死にかけのロビンを掴むと、腕が一生麻痺するって」  離れていく口元は冷たく嗤っていた。  彼の言葉が、耳朶から滑り込み、ぐるぐると回る。頭の中が掻き混ぜられるみたいだ。部屋を掻き乱す波のノイズが、青い幻影を白い壁に映し出す。  死にかけのロビンをこの腕が掴んだのならば、ロビンの死に際にいたのは、僕か。 「ロビンは死んだよ。君が殺した。翼をもいだんだろう。君は彼の翼が羨ましくて、彼を連れ去るその翼が憎かった」 「違う、僕は」 「本当に、そうかい」  動かない僕の左腕を、彼の手が掴む。  もしも、同種族の子供同士が殺し合ったとしたら、EIはそれを隠そうとするのではないか。彼らは、羽化する種族の子供を守ることが目的だ。他の子供たちから隔離してでも、種を守ることを優先に、罪を犯した子供も残そうとするだろう。  僕が、ロビンを、殺したとしたら、その事実を僕からも隠そうとするのだろうか。 「でも、僕は」 「違うだろうね」  少年が小さく笑って、僕の腕を放す。 「ロビンを殺すのは、雀と決まっているからな」  くるりと僕に背を向けて、入道雲の立つ青い空を見上げた。 「だけれど、ずいぶんと、自分に自信がないんだな」  青い目が、僕を射る。 「自分がしたことも、していないことも、定かじゃないなんて」 「それは」 「ねえ、君」  少年がひらりと腕を広げた。 「君はいつからこの部屋にいるんだ」 「ロビンが、いなくなってから」 「それは、いつの話」 「真夏の星月夜だ」 「へえ、そう」  心臓が、やけに激しく鼓動を鳴らす。 「この前、話しただろう。ここは『終わらない夏の部屋』って呼ばれているって」  息苦しくて声がつかえて、小さく頷いて答えを返す。 「僕らの間では、噂があるんだ。この部屋で、チューニングが上手く合うと、常夏の景色が見られる」 「それって、どういうこと」 「普段この部屋は、夏じゃない、ってことだよ、ツバメ」  ずぐり、と心臓が痛んだ。 「常夏の景色が見えると、ツバメに遭える。それがネバーランドの七不思議だ」 「待って、どういうことなの」 「君は普段は、僕らには見えない」  真っ青な夏の空のような瞳が、僕を真正面から見据えている。青い夏に絡め取られて、僕の身体が痺れたように動かなくなる。部屋の中を、波音が大きく呑み込み、僕は白い卵の中で溺れていく。 「ツバメ、この部屋にいるのは、ゴーストだ。古くて、壊れかけたノイズ混じりの、古参しかいない。僕らとはシステムが違うんだ」  僕は動かない左腕を見下ろす。左腕はノイズにひび割れて、今にも千切れてしまいそうだった。 「僕は、ロビンを待ってないと」  消えかけた腕を抱えて彼を見上げる。 「彼に会いたいかい」 「会いたい。ずっと待ってたんだ」  ふうん、と少年は目を眇めると、指先で空中に四角を描く。  ぶん、と唸りが聞こえて、切り取られた空間が映像を結ぶ。 「やあ、ロビン。連絡していたように、君に会いたいって人がいるんだ。話せるかい」  少年がにこやかな顔で話かけると、一人の男が戸惑ったように頷いた。  一目見て、彼だとわかった。 「ロビン、久しぶり、ツバメだよ」  彼は僕を覚えていないみたいだった。不思議そうな眼差しが僕を見た。忘れてしまったのだ。ここから出たのだから、仕方がない。ロビンは成長し、羽化をして、もうここにはいられないと出て行ったのだ。だから、全てを忘れた。遠い昔の、幼い日の夢だと思っているに違いない。  僕を、EIを忘れてしまったロビンに、たくさんの事を話した。僕らふたりがどれだけ仲良しだったか。どれほどの時間をこのEIで一緒に過ごしてきたか。彼は僕の話を、真剣な顔で聞いていた。 「ねえ、ロビン、また一緒に遊ぼう」  でも、彼は首を振る。 「もう遊べないんだ、わかるだろう。君のロビンは、もう、いないんだ」  諭すような大人の口調が、僕の身を裂いていく。  部屋を包むノイズの向こうで、ざわざわと近く遠くに騒がしい人々の気配がしている。この部屋の外で、僕を捕らえようと、誰かが待ち構えているのかも知れない。 「なあ、ツバメ。君は忘れているのかも知れないが、君だって、その部屋から出て行けるんだ」 「駄目だよ。僕には翼がない。君を待っていなくちゃ。小さいロビンは、ひとりじゃなんにもできなくて」 「俺はもう、大人だよ」  彼は哀しそうに首を振る。ああ、そうだ。ロビンはとうに僕の背丈を追い越して、翼を得て、こうして今、目の前にいて。もう、大人になったのだ。その背中に、翼はなかった。  でも、どうして、僕だけが子供のまま。  白い部屋に閉じこもり、ひとりで、ずっとロビンを待っていた。永遠に続く夏の中で。 「あの日から、何も変わっていない。ロビン、君がいなくなってから、僕はずっと、僕だけがあの日のまま」  崩れかけた左腕を、ロビンに伸ばす。 「君を待っているんだ、ロビン」  画面の中で、知らない男が、何処かが痛むみたいに優しく笑った。 「君には希望があるんだな、ツバメ。死んでしまった者には希望はないよ。あるのは、繰り返しの日々だけだ」  ロビンが手を振るみたいに右手を払うと、画面はぶん、と小さく唸ってノイズになって消えた。僕の腕が、耐えかねたように粉々に砕け散る。何もないはずの空間に、見慣れぬ大人の腕が重なった気がした。 「ツバメ、もう、ネバーランドを閉じるんだ。だから、君も帰ろう」  そっと背に温かな熱が添えられる。青い目が、寂しげに僕を覗き込んだ。 「いつか、卵は孵らなきゃならない。たとえ君が拒んだとしても、いつか殻は割れてしまうんだ。もう、とっくに、君は卵の外に出ているんだよ」 「でも」 「それに、ツバメは、夏を渡っていくものだろう。いつまでも、一つの夏に留まるわけにはいかないよ」  指先が、僕の背中に爪を立てる。抗う間もなく、皮膚が裂かれて肉を抉り、床に崩れた僕の背中から、何かが引きずり出される。激痛が脳を揺さぶり、目の前が真っ白に染まった。ごうごうと、波の音が、全てを包み込む。ばさりと、背中で、大きな翼の広がる音が聞こえた。  白い部屋に開いた青い窓の向こうで、夏の終わりの空がぎらぎらと輝いていた。 「なあ、知っているかい、古い居住区域に『終わらない夏の部屋』があるんだって」 「ええ、そんなの、子供だましの噂だろう。だって、古い区域は封鎖されているって言ってたよ」  まだ幼い子供たちが、くすくすとさざめきながら擦れ違った。  棺に納められた僕は、しめやかに、そして誰にも知られずにEIの墓地に葬られる。喪主を務めているのは青い目の少年で、他にはEIの職員がたった一人いるだけだった。  ざわざわと、近くて遠い場所で、人々の気配がする。遠いといっても、物理的な距離じゃない。薄い殻を隔てたすぐ向こう。僕の、本来の身体がある場所だ。  ヘッドセットと感覚共有機でEIに接続されたまま、そこで何年も眠り続けている僕は、もう、立派な大人に違いない。膜の向こう、すぐ隣で僕を呼んでいる声は、棺の横を歩く少年とよく似ていた。 「ツバメは羽化をしたんだな」 「ええ、僕が見届けて、僕が殺しました」  棺越しに、職員と少年が話す声が聞こえる。 「なぜ君が」 「頼まれたからですよ、瀕死のツバメに。空に返して欲しいと。彼は夏を追いかけ、渡っていく鳥です。それが何か」 「いや、構わない」 「あなた方は、巣立っていく鳥に興味などないと思っていましたけどね」  こんこん、と拳が棺をノックする。  僕はそっと内側からノックを返して、暗闇の中へと飛び込んだ。まるで沈むように浮かぶように、意識だけが虚空を飛んでいく。  やがて暗い道を抜けて、眩しさに、瞼が震える。  薄く開いたゴーグル越しの視界の向こうで、窓の外に、高く澄んだ秋の空が広がっていた。
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