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店に戻ると、道一郎は御冷酒を少しずつ呷りながらママの帰りを待っていた。
「ただいま」
「おかえり」
ママは八寸を作り、道一郎に差し出した。道一郎はいつものように舌鼓を打ち、満足そうな笑顔を見せていた。
「いつも美味しいね。これが食べたいから毎日のように来るんだよ」
「ありがとうございます。えっと、たまには割烹のフルコースなんかどうです? 今日は新鮮な鯛が入ってきたのですよ?」
「この十年で貯金も尽きて贅沢は出来ないもんでしてね。日雇いバイトだとカプセルホテル代と食事代でトントンなもので」
道一郎が初めて話す「自分のこと」であった。これまでは「天気の具合」や「芸能の話」などと言ったしょうもない話題しか話すことはなかった。
ママはその話に耳を傾けることにした。
「あら、これはこれは」
「自分の母は、もう亡くなってますけどね。こんな割烹のお店してたんですよ」
「あら、これはこれは」
「特に八寸が好きだったんですよ。母が亡くなって以降はもう食べられないと思っていたのですが、ここの八寸は母の作る八寸と似ていて、好きだったのです」
「そう言って貰えて嬉しゅうございます」
道一郎は自分の掌をじっと見つめた。
「この十年、漂泊の旅を続け母の味に巡り会えてよかったです。でも、自分はこんな美味しいものを食べて縁に浸ることすら許されない程の罪を犯しているのです」
「……左様ですか」
道一郎は八寸を空にし、徳利を空にすると、代金を置いてスッと立ち上がった。
「おいしかったよ。ありがとう」
「お粗末さまでした。またの御来店を」
道一郎が玄関から出た瞬間、ママは玄関の向こうに赤い光を見た。それからサイレンの音が鳴り響く。
暫くすると、一人の刑事がママの店へと来訪し。玄関を開けるなりビシッとした敬礼を行った。
「今回は、指名手配犯の情報提供。ありがとうございました!」
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