夏の終わり

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   今日、僕らの地域で梅雨明けが宣言された。これから夏が本格的にやってくる。まだジメジメとした湿度がある中、僕は深夜の公園で素振りをしていた。  公園は小さく、砂場と滑り台しかなく、あとはベンチ椅子が二つ並んでいた。そのベンチとベンチの間には、一つの街灯がその公園をわずかに照らしていた。  僕は必死にバットを振っていた。汗は滝のように流れ、Tシャツは僕の体にへばり付いていた。  バットを振って、バットを振って、バットを振るが、不意に心が乱される。嫌な記憶が蘇る。心はざわつき、足がしっかりと地面を踏ん張れない感覚に陥る。  僕はバットを振るのを止め、心臓に手をやる。そして目を閉じ、深呼吸を繰り返す。そして、「落ち着け、落ち着け」と心の中で唱えていた。  もう何度も、この行動を反復している。素振りをしては、心が乱れ、深呼吸をして気持ちを静める。そして、素振りに戻る。だが結局、すぐに嫌な記憶を思い浮かべてしまう。  もう何度目の深呼吸だろうか?何かをしてないと、嫌な記憶がエンドレスでリピートするので体を動かしてみたが、頭を空っぽにすることは出来ない。  「ねぇ、そこの君」  突然の声に驚き、僕は深呼吸を止め、声のするほうに目をやった。そこには、公園のベンチに腰掛けている女性がいた。  僕は驚き、体を棒みたいに直立させた。  それもそのはず、もう12時は過ぎている深夜。そんな時間に、僕と同じくらいの年齢?いや、僕より少しだけ年齢の上かも?でも、そんな女性が、こんな薄暗い小さな公園で、男の僕に突然声を掛けるだなんて。  僕はしばらく、何も言えず黙って彼女のほうを直視していた。  「ねぇ、これ君の?」  彼女はベンチに置いてあるペットボトルを指差した。    それは僕のペットボトルだった。二リットルのスポーツドリンク。家から持ってきたものだ。  僕は彼女の問いに、黙って頷いた。  彼女は少し躊躇しながら、僕に訊いてきた。  「これ、貰ってもいい?」  「え?あ?は、はい」と僕は戸惑いながらも承諾した。  彼女は、ペットボトルの蓋を開け、そのままラッパ飲みの態勢に入った。  僕はすぐさま、「あっ、それ、飲みさしですよ」と言い、彼女の行動を止めようとした。  彼女は、一瞬だけ動きを止めたが、「気にしないから」と言い、そのままスポーツドリンクをガブガブと飲みだした。  彼女が飲んでいる間、僕は彼女の意外の行動に目が釘付けになっていた。  彼女の服装はすごく軽装だった。エビフライのイラストがプリントされている若草色のTシャツ。下は紺色のスウェットのハーフパンツ。まるで寝る前の格好で、外出用の格好ではない。それに額には玉のような汗をかいており、前髪は海藻のように張り付いている。  彼女は十分飲んだのか、口元からペットボトルを離した。飲むのに必死で息をしていなかったのか、しばらく、ハァ、ハァ、っと呼吸が荒れていた。  僕はその光景を見て、ただならぬ事件性を感じた。  「大丈夫ですか?警察呼びましょうか?」と僕は訊ねた。  彼女は手のひらを僕に突き出した。「ま、ま、待って。だ、だ、だい、大丈夫、だから」  まだ呼吸が荒れていたので、上手く喋れないようだ。  彼女はしばらくして呼吸を落ち着かせた。  「大丈夫なの、大丈夫なの。何にもないの」と彼女は言った。そして少し照れながら、事の顛末を話し始めた。  どうやら彼女は、今日は寝つきが悪く、なかなか眠れないので外に出たらしい。ちょっと歩いて帰るつもりが、余計な考え事をしていて、とんでもない距離を歩いてしまったらしい。フッと我に返ってみると、夜なのに外は思いのほか暑く、汗はダクダクで、喉はカラカラ。それに、ちょっとのつもりで外に出たので、財布もスマホも何も持ってない。そんな状況に陥った時、この公園で僕を見つけたそうなのだ。  彼女は「まだ七月の夜だというのに暑すぎるのよ」とブツブツと照れを隠すように文句を言っていた。  しばらくすると、彼女は話題を変えた。自分のことではなく、僕のことを訊いてきた。「ところで君は高校球児?」と。  僕は一瞬、胸に痛みを感じた。しかし、今の状況を誰にも知られたくなかったので、僕は無言で頷いた。  「こんな遅くまで頑張るね」  「はぁ」と、気のない返事をする僕。「自分も寝れなかったので、少し体を動かそうと思っただけっすよ」と説明した。  「ところで時折、胸に手を当てて目を(つむ)っていたのは、どうして?なにかの、おまじない?」  「えっ、見てたんですか?」  「初めは声掛けるの、抵抗あって躊躇っていたから、十分くらいは黙ってベンチに座っていたの。早く気づいてくれないかな?って思いながら。でも全然、気づいてくれなそうだから、思い切って声掛けたの」  僕は恥ずかしさを覚えた。誰かに見られていると思っていなかった。素振りをしては、途中で目を閉じる。そして再び素振りをして、また目を閉じる。そんな行動を彼女は黙って見ていたなんて。そんなことを想像すると、余計に汗が出てきたように感じた。  「あれは、まあ、あれですよ。リラックスするための、あれです。あれ」  僕は思わず訳の分からぬ返答をしてしまった。僕は少し冷静になってから、もう少し詳しく彼女に説明をした。「悪いイメージが出てきたとき、心を落ち着かせるために深呼吸してるだけっすよ」  「へぇー、それで心が落ち着くの?私も検査の結果が分かる時、やってみようかな」  彼女は僕の真似をし、胸に手をやり、目を閉じた。  僕は照れ臭かったが、それよりも彼女の一言が気になった。  「検査の結果?」と躊躇いながら訊き返した。  彼女は目を開け、しまった、という顔をした。自分の失言を後悔しているようだった。  彼女は過剰に明るい口調で、僕に自分のことを打ち明けてくれた。  「実は、今、病院から抜け出しているの」  「えっ?大丈夫なんですか?」  「大丈夫、大丈夫。ただの検査入院だから。でも、なんか病院にいたら、いろんなこと考えちゃうじゃない。だから寝れなくなっちゃって」  彼女は、はにかんだ笑い顔を見せた。    彼女はこのあとすぐ、ベンチから立ち上がり「ごめん、ごめん、邪魔しちゃって。バレないうちに、病院に戻らなくちゃ」と言った。そして、「飲み物ありがとう」と付け加えた。  僕はスポーツドリンクを彼女に渡した。「これ、あげます」  「でも、君の分が」と彼女は遠慮していたが、「自分ももう帰ります。自分の家すぐ近くなんで」と言って、彼女に強引に渡した。  僕がスポーツドリンクを渡すと、彼女は何度もお礼を言いながら、公園から出て行った。  彼女の姿が見えなくなり、僕もバットを持って家に帰ることにした。  家に帰る間、僕は今日の出来事を思い返していた。公園の彼女とのことではなく、昼間あった出来事だ。思い返したくないけど、今のところ脳裏に張り付いて剥がれない記憶になる。  今日、日中、甲子園に繋がる県予選の試合があった。  僕らの高校は県内ではトップクラスの強豪校。甲子園も狙える位置にいた。今日の試合は、僕たちにとって甲子園を目指すための初戦だった。シード校なので二回戦目からの出場だ。  相手はそれほど強くない、ただの一般高校。だけど相手は一回戦、逆転勝利を決め勢いがあった。そして、前日の雨でグラウンドコンディションは最悪の状態だった。  それでも我が校が勝つと、みんなが思っていたはずだ。  しかし、この日は何かが変だった。  まずは、初回から、うちのエースの制球が定まらなかった。フォアボールの連発で先制点を取られ、三回には追加点も取られた。後半につれて尻上がりに調子を取り戻すが、六回に交代するまで本来の力を出すことはなかった。  バッティングのほうも、みんなが本来のスウィングができなかった。ピッチャーの不調もあり、早く点を取ってピッチャーを楽にしてやりたいと気負いすぎたのが原因だろう。それに不運も重なった。グラウンドコンディションのせいもあり、いつもなら内野の間を抜ける強い当たりの打球が、途中で勢いが弱まり凡打になった。それにより、いつもよりダブルプレーも多く取られた。  相手のほうの打球は、うまい具合に勢いがないせいで内野安打になったり、イレギュラーなどもあり毎回のように塁上にランナーがいた。  監督から、「いつも通りのプレーをしろ」、「リラックスしろ」、「深呼吸は?」、そういう指示が常に出ていた。しかし、一度狂った歯車は、そう易々と元には戻らなかった。僕も何度も深呼吸をしたが、他のチームメイトの緊張が次々と伝染し、結局、みんないつものプレーができなくなっていた。  試合はグラウンドの状況と同じく文字通りの泥仕合。九対八で、我々が一点差を追いかけ、九回裏までやってきた。  ツーアウト、ランナーは二三塁。一打同点、長打なら逆転。バッターボックスには僕。ボールカウント、スリーボール、ツーストライクのフルカウント。  僕はいったん打席から離れ、胸に手を当て深呼吸をする。「落ち着け、落ち着け」と心の中で言い聞かす。何度も何度も言い聞かすが、僕の鼓動の振動は手にまで伝わってくるほど激しかった。  そんなに長い時間タイムも取れない。僕は緊張のままバッターボックスに立つ。足が宙に浮いてるようで、上手く踏ん張りがきかない。しかしボットを構えるしかない。  審判がプレイをコールする。ピッチャーが投球モーションに入る。ピッチャーからボールが放たれた。ボールのコースは真ん中低目。  僕は見逃した。そして振り返り、審判のジャッジに見守った。  「ストライク」。審判は片手を高くつきあげた。  球場にゲームセットのサイレンが鳴り響いた。僕らに夏の終わりを告げた。  この日から、僕は最後の一球が、目を閉じると何度も甦る。バッターボックスから見たあの球は、完全にストライクコースに入っていた。自分でも、あの瞬間、ストライクだと認識していた。僕はバットを振ろうとした。しかし体は動いてくれなかった。上半身が硬く固まっていた。  あの日から、二週間が過ぎ、夏休みに突入した。  三年生は部活を引退。しかし、三年生の中には後輩の練習に付き合う連中もいた。また、進学のため勉強に力を入れる者もいた。野球漬けの環境から解放され、遊びまくっている者もいる。  僕はというと、何もしてなかった。いや、していないのではなく、何もできないでいた。何かをやろうとしても、あのときのボールの軌道が脳裏に蘇る。  結局、寝ようとしてもすぐ寝れないので、公園に行ってバットを振る日々が続いていた。深夜バットを振り続け、ヘトヘトになってようやく眠りに着ける。そして昼間まで寝ては、それからゲームをしたりして気が紛れることをやってみる。夜になると、また寝れないので、公園に出掛ける。  夏休みに入ってからずっと、同じ毎日が繰り返されていた。  七月もそろそろ終わりを迎え、夜中でも暑さが弱まらなくなってきた日。僕はあの公園で再び彼女に会った。僕が素振りをしていた時、彼女が声を掛けてきた。「まだ、いた。良かった」と彼女は僕に手を振った。  「これ」と言って、彼女は僕にレジ袋を渡した。中には二リットルのスポーツドリンクが入っていた。「あのときは、ありがとう」と彼女はお礼を付け加えた。  「わざわざ、これを渡しに?」と僕は訊ねた。  「あのときのお礼が言いたかったし、それに、こっちの病院で手術しなくちゃいけないことになったから」  「手術?大丈夫なんですか?外出なんてして」  「大丈夫、大丈夫。すぐにどうこうなる病気じゃないから」と彼女は明るく答えた。「それより、あのときの私、怪しくなかった?」と彼女は僕に訊いた。    僕は黙ったまま頷いた。  彼女はそれを見て笑い出した。「そうだよね。自分で思い返しても怪しいもん」と付け加えた。  今日は彼女のことを怪しいとは感じなかった。会うのは二回目ということもあるし、なにより彼女の格好が、この間よりマシだったので。今日は白のブラウスに紺のゆったりしたパンツだった。この間のパジャマみたいな姿だったので、なにかしら事件に巻き込まれ徘徊している雰囲気を醸し出していた。  「ところで」と彼女は話題を変えた。「このまえ、君から教えてもらった、心を落ち着かせる方法。あれ、なかなか難しくない?全然、心落ち着かないんだけど。君は出来るの?」    僕は、この夏の最後の打席のことを思い出した。あの日、僕は全然、心を落ち着かせることは出来なかった。  僕は彼女に向かって、首を横に振った。  「やっぱり君も出来ないんだね。素振り中、何度も何度も繰り返してたから、もしやって思ったんだ。実は今日は、お礼を言いたかったのと、このアドバイスを伝えたかったんだ」  「アドバイス?」  「ああ、これは私が考えたことではなくて、お医者さんから教えてもらったことだから、信ぴょう性はあると思うよ」  彼女はことの経緯を話してくれた。  ここ最近は、病院の検査結果を聞いたり、その病気の説明や治療の話を聞いたりで、常に心が落ち着かなかったそうだ。特に、手術をしなくちゃいけないって分かってからは、不安で仕方なかったみたい。そこで深呼吸をしたけど、なかなか効果がなかった。たまたま、病院の待合室で深呼吸しているとき、担当医にその姿を見られたそうだ。彼女は担当医に、その説明をすると、担当医から違う方法を教えてもらったという。  「深呼吸で心を落ち着かせることは、出来るには出来るけど、時間がかかったり、軽い緊張の時くらいだけなんだって。強い緊張のときに、無理やり落ち着かせようと思っても、かえって反発し緊張が強まるんだって」  確かに、深呼吸をしたが、僕はガチガチになって体が動かなかった。そして見逃し三振に。  「そんなときは、無理に落ち着かせるのではなく、マイナスをプラスに変えればいいんだって」  「マイナスをプラスに?」  「そうなの。心配とワクワクって、全く同じなんだって」  「えっ、どういうこと?」  僕は彼女が何が言いたいのか、さっぱり理解できなかった。  「あー、なんて言えば、伝わるんだろう?」と彼女は言いながら頭を掻いた。そして、ひと息吐いて、また説明を始める。「例えば、君が三振するかも?と思って心配しているときと、ホームランを打てるかも?と思って興奮しているときの、体の反応は全く同じなんだって。心臓の鼓動が早くなったり、汗をかく」  「だから、それがどうなの?」  「だから、緊張で心臓が早くなったときは、無理やり鎮めるんじゃなくて、これは不安のドキドキではなくて、ワクワクしてるからドキドキしてるんだって思えばいいんだって。体って、勝手に反応するからコントロールしにくいけど、自分がどういうふうに思うかは自分で決めれるんだって」  彼女の言いたいことは何となく分かるが、そんなに上手くいくのかな?と疑問には感じる。  「じゃあ、試しにやってみて」と彼女は、にこやかに指示を出す。  「何を?」  「いつもみたいに素振りしてみて」と彼女は言う。僕が渋っていたら、「試しにやってみたら?」と彼女はしつこく言う。  僕は仕方なしにバットを構えた。彼女は「よーい、スタート」と言う。まるで映画監督のようだ。  僕は何度かスウィングする。彼女が「そろそろ緊張してきた。心臓の鼓動が早くなる」と言った。  僕はバットを止めた。彼女は「はい。いつものように目を閉じて」と言った。僕は彼女の指示に従う。  「君は打てなかったらどうしようと不安になっている。でも五秒数え終わると、このドキドキは、ホームラン打てるかも?というワクワクに変わります。五、四、三、二、一、はい。じゃあ、目を開けて」  僕はゆっくりと目を開ける。  「どうだった?」と彼女は興味津々に訊いてきた。  「どう?って言われても、まだピンっと来ないかな」と僕は素直に感想を言った。  「この五秒数えるってのも大事で、何回も何回も繰り返してやれば、五秒間で意識を変えれる癖付けになるんだって」  「へぇー、そうなんだ」と僕は軽く受け流した。なにせ、僕は引退した身だ。こんなことを今さら知ったところで遅い話だ。  「ねぇ、ホームラン打てそう?」と彼女が訊いてきた。  「ホームラン?」と僕は驚き、訊き返す。  「だって、君、高校球児なんでしょ?」  そうか、彼女は、僕がまだ高校球児で甲子園を目指して県大会を頑張っていると思っているのだ。僕は彼女に正直に打ち明けた。彼女に会った日、自分たちの高校が負けたことを。そして負けた原因は、僕が最後の打席、恐怖でバットが振れなかったことを。そして、そのボールの残像がいつもでも拭えないので、こうして公園でバットを振っていたっと。    彼女は黙って僕の話を聞いてくれた。  「そうか、残念だな。あれ、やってもらおうと思ったのに」と彼女は言った。  「あれ?」と僕は訊き返す。  「あれじゃん、あれ。映画とかでよくやるやつあるじゃん。手術前の子供に、『僕がホームランを打ったら、君も頑張って手術を受けるんだ』と言って、勇気付けるやつ」  「はぁ?」  僕は彼女の突拍子もない言葉に戸惑った。そして、一応、想像してみる。僕は急に笑いが込み上げてきた。想像すればするほど可笑しかった。久しぶりに笑った。少しだけ、自責の念が軽くなるのを感じた。  「えっと、残念だけど、僕は七番バッター。もし、勝ち進んでいたとしても、僕に頼まれても困るよ」  「やっぱ、映画の通りにはいかないのね」  僕は、しばらく可笑しくて笑った後、フッと考えた。そして彼女の横顔を見ると、彼女は何か思い煩っているような感じに見えた。  「大変な手術なの?」と僕は訊いた。  「そんなことない。そんなことない」と彼女は否定した。  「本当はどうなの?」と僕は訊き返す。  彼女は一つ、ため息を吐く。「弱音吐いてもいいかな?」と訊いてきた。  「どうぞ」  「両親や友達に、こんなこと言うと心配されるから言えないけど、やっぱり怖いよ」  彼女の声が若干震えていた。  彼女の病気は、脳の血管の病気らしい。今のところは、何ら問題もないし、この先も何ら問題なく過ごせるかもしれない。しかし悪化すると命に係わる可能性もある。手術は、脳の手術からしてみれば簡単なほうで、ほぼ百パーセント成功する。しかし、病気は排除できても、ごく稀に後遺症が出るケースもあり、歩けなくなる可能性もあるのだとか。  この病気が分かったのが、初めて僕と会った日だそうだ。それから、いろいろ考え、病院の先生とも相談し、両親とも話し、今、大学生だから、夏休みを利用して手術をしたほうがいいのではないかと結論付けたのだ。  「自分も、手術したほうがいいと思いますよ」と僕の意見を言ってみた。  彼女は涙目で僕を睨んだ。「でも、歩けなくなることだってあるんだよ。気軽に言わないで」  「でも命には代えられないでしょ」  「そんなことは分かってるのよ」  彼女は膝を抱え、顔を伏せた。すすり泣く声が微かに聞こえる。  「君だって動けなくなったくせに」と彼女の消え入りそうな言葉が聞こえた。  僕は黙って、彼女が泣き止むのを待った。   しばらくすると、彼女は顔を上げた。そして僕に謝って来た。「ごめんね、愚痴って当たって。君は全然、関係なかったのに」  僕は彼女に訊いた。「手術は、いつですか?」と。  手術は、一週間後の予定らしい。当日までに、どうしても無理なら中止できるようだ。  「手術までの間に、一日、僕に付き合ってくれませんか?日中、病院を抜けれませんか?」と訊ねた。  彼女は驚いた表情をし、「どうして?」と訊き返した。  「自分とバッティングセンターに行きませんか?ホームラン打ちます」  僕は彼女が泣いているときに考えたことを伝えた。彼女は笑ってくれた。そして「いいよ」と答えた。  僕と彼女はlineを交換した。  彼女の名前は、持田真希、二十歳の大学生。僕たちは二日後に、いつもの公園ではなく駅前に待ち合わせをした。  二日後、駅前に真希さんがいた。今日の彼女の服装はワンピース姿だった。僕はというと、いつものようにTシャツにジャージ。家から出るときに、一応考えたけど、この暑い中でバッティングセンターに行くのだからと思って、いつも公園で素振りする格好と同じものにした。ワンピースとジャージ、まったく釣り合ってない。  僕らは昼前ということで、とりあえず駅前のファーストフード店に行ってハンバーガーを食べた。真希さんが奢ってくれた。僕は断ったのだけど、真希さんが「私のために来てくれたから」とか、「私、バイトしてるから」と言って、出してくれた。  食べてる間、お互いに何を喋っていいのか分からず、暑いね、とか、そんな他愛もないことは言っていた。よくよく考えたら、まだ仲良くなるほど会話もしてないから当たり前だった。  ハンバーガーを食べたあと、駅前からバスに乗り、バッティングセンター近くの停留所に降りた。このバッティングセンターの昔からある古いバッティングセンターで、僕が中学生のとき、よく父親に連れてきてもらっていた。高校になってからは、このバッティングセンターは軟式のボールしか扱ってないので、一度も来てなかった。  「バッティングセンターって初めて」と真希さんは言った。キラキラとした表情で言うので、「あまり楽しい所じゃないよ」と僕は期待を下げておいた。  バッティングセンターの中に入ると真希さんが不思議がる。  「ねぇ、こんな狭かったらホームラン簡単じゃない?」  僕は真希さんに、ここのバッティングセンターの仕組みを教えた。「ネットが張ってある高い所に的があるでしょ?その的に当たったらホームラン」  「えー、あの的に当てるの?あの小さな所?」  「うん。普通の野球は大きく打てばホームランだけど、バッティングセンターはコントロールもいる。これはこれで難しいんだよ」  「当たる人いるの?」  「滅多にいないから、ホームランなの」と僕は言った。そして付け加えて、「ここで自分がホームラン打つから、真希さんも頑張って手術受けるんだよ」と言った。  真希さんは、クスクスと笑って、「分かったわよ」と返事をしてくれた。  僕はメダルを買った。真希さんが「何、そのメダル?」と言うので、「このメダルを入れると、機械から球が二十球投げられるの」と教えてあげた。    「ところで、どのレーンがいい?」  「レーン?」  「何列か並んでるでしょ」  「違いがあるの?」  「スピードが違うよ」  「じゃあ、一番速いの」  真希さんは、いたずらっ子のような笑顔で答えた。  このバッティングセンターで一番速い球は130キロ。全然、打てない速さではない。っていうか、高校球児にとっては、バッティングマシンの130キロは打ちごろの速さだ。  僕は130キロのレーンに入り、機械にメダルを投入し、バットを構える。第一球、バットに当たり、ボールを鋭く弾き返す。久しぶりの軟式で打った感触は違うけど、それほど違和感はない。  「はやーい」。後ろにいた真希さんが驚く。「優くん、がんばれ」と僕の名を呼んで応援してくれた。  ボールはテンポよく投げられ、それを僕は弾き返す。鋭い打球はいくつもあるが、ホームランになりそうは高い軌道の球は打てなかった。  「優くん。あれやってない、あれ。五四三二一のやつ」と真希さんが後ろから騒ぐ。「あれやらないと、あれ」と何度も忠告してくる。  僕は「待って、今は無理」と言い返した。だって球は次々とやってくる。待ってはくれないのだから。  二十球が終わり、僕は一旦レーンから出た。  真希さんがすぐさま「ほら、あれやって」と言って、僕に目を閉じるように指示した。僕は、どうしようかと考えたが、仕方なしに真希さんの指示に従う。だって、ボールはストライクゾーンにしかこないし、変化球もない。投げてくるリズムも単調。こんなので不安や緊張するほうが難しい。  「五、四、三、二、一。はい、ワクワク」と真希さんが言う。  僕は一応イメージをする。ホームランを打って、真希さんと一緒に喜ぶ姿を。あれ?本当に打てる気がした。され?ワクワクする。  僕は、また130キロのレーンに入る。ホームランが打てそうな気がする。しかし、打球は鋭いが高くは上がらない。  それもそのはず、僕は七番バッター。高校三年間、監督からは、打球は叩きつけろ、と指導された。球を浮かさず、転がして、内野安打を打つフォームが完全に固定されているのだ。  フォームを変えて高く上げようとするとタイミングが合わないし、タイミングを意識すると、フォームが内野安打の振り方になる。  「私にもやらせて、私にも」と真希さんが言うので、一旦、僕が打つのは止め、真希さんに変わる。  真希さんには一番遅い80キロのレーンに入ってもらう。真希さんは、バットの握り方も分かってなかった。左右の手が反対だった。僕は簡単なアドバイスだけはした。  「ねえ、今度は優くんが五秒数えてよ」と言って、真希さんは目を閉じた。  僕は、「はい、はい」と面倒くさい感じで答え、「五、四、三、二、一。はい、ワクワク」と言ってあげた。  「やばい、打てるかも」と言って、真希さんはレーンに入った。  バットを持ったことが無かったのに打てるわけもなく、「全然、当たらない」と真希さんは言う。真希さんのスウィングは、真希さんがバットを振ってるのか、バットが真希さんを振ってるのか分からないようなスウィングだった。  結局、二十球中、バットに当たったのは三球くらいで、それもボテボテのゴロだった。でも、本人は当たっただけで、すごく嬉しそうにしてたし楽しそうだった。  レーンから出た真希さんは、「手が痛い」と言っていた。手のひらが真っ赤に充血していた。「毎日、バット振り続けていたなんて、優くん凄いね」と褒めてくれた。まあ、それくらいで褒められても、野球部なら当たり前なのだけど。  それから僕だけが球を打った。ときよりフォームを変えながら微調節して打った。次第に高い打球が飛ぶようになり、ホームランの的に惜しい打球も増えた。  真希さんから何度か、「遅いボールにすれば?」とレーンの変更を薦められたが、僕は断った。バットとボールの当たる角度の問題で、ボールの速さは関係ない。130キロでタイミングは合っていた。それに野球部としてのプライドがあり、見栄もあった。格好いいところを見せたかった。  段々とコツが分かりだしたが、もうこれが最後のメダルになる。体力はまだ残っているが、僕の資金には限りがある。  僕は真希さんにラスト一回を宣言した。そして真希さんに、あれを頼んだ。  僕が目を閉じると、「五、四、三、二、一。はい、ワクワク」と真希さんは言った。  僕がレーンに入ると、真希さんは一球一球応援してくれて、一喜一憂してくれた。このときだけでなく、今日ずっと僕のバッティングを見て応援してくれていた。だから、どうしてもホームランを打ちたい。  奇跡というの、そう簡単には起きてはくれなかった。  結局、惜しい打球はあれど、ホームランの的に当てることは出来なかった。  「ごめん」と僕は謝った。  「なんで謝る必要があるのよ」   「でも、ホームラン打てなかったし」  「私のためにホームラン打とうとしてくれたんでしょ?嬉しかった」  「でも真希さんの言うように、遅い球にしてれば」  「それより、的が小さいのが卑怯なのよ」  「ごめん」  「だから、謝んないで」  「違う」  「何が?」  「バス代、貸してもらえるかな?」  僕はムキになって、有り金全部、バッティングセンターに注ぎ込んでしまった。帰りのバス代をすっかり忘れていた。  真希さんは笑い、「そんなの出してあげるわよ」と言ってくれた。  バスに乗り、駅前に到着した。  僕は別れる前に、もう一度謝った。どうしても気になることがあったので。  「今日は、ごめん」  「だから謝まんないでよ」  「でもホームラン打てなかったから、手術は・・・・・・」  「ああ、そのこと気にしていたのね」  真希さんは、しばらく沈黙した。そして、少し言いにくそうに口を開いた。  「病院の先生に、五秒のやつ以外にも、もう一つ教えてもらったことがあるの」  「どんなの?」と僕は訊ねた。  「辛い時の対処法」  「どうするの?」  「また協力してくれる?」  「自分に出来ることなら」  真希さんは、またしばらく沈黙した。そして恥ずかしそうに小声で「ハグ」とだけ呟いた。  「ハグ?」と僕は訊き返す。  「別に変な意味じゃないよ。こんなの両親に頼みづらいし、友達に頼むのも気を使われそうだし、ペットでもいいらしいけど、うちにペットいないし、優くんがホームラン打てなくて申し訳なさそうにするから言ってるだけで、私はハグしてほしいわけじゃないんだけど」  「あの、今日、めちゃめちゃ汗かいてベチャベチャで臭くても、いいんですか?」  真希さんは、黙って頷いた。  僕は真希さんにハグをした。真希さんも僕にハグをしてくれた。  僕の最後の打席の記憶を真希さんが吸い取ってくれた気がいた。僕も真希さんの手術の不安を少しでも吸い取ってあげたいと思った。  「今日は、ありがとう。手術受けるよ」  真希さんは元気に帰って行った。  あれからも真希さんとはlineで連絡を取り合っている。真希さんは手術を行い、無事成功したそうだ。しかし、ままだ入院は続き、経過観察とリハビリがあるみたいだ。  僕が、お見舞いに行くよって言ったけど、真希さんは、会うのは退院してからでもいいよっと言ってきた。  僕は今日、真希さんのお見舞いに行ってこようと思っている。僕はその準備をしていた。家のテレビからは、甲子園の開会式が映し出されていた。真っ青な空に白い雲。これぞ夏の空。  負けたとき、夏が終わった、と思ったが、そんなことはなかった。夏は僕たちを待ってくれていた。  僕は準備を済ませ、病院に向かった。こちらも快晴。甲子園と同じだ。    病室の扉の前に、真希さんの名前があった。僕は今、すごく緊張をしている。でも、もう見逃し三振は嫌だ。  僕は扉の前で目を閉じた。心の中で「五、四、三、二、一。はい、ワクワク」と言った。  僕は今日、告白をする。
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