壁の中

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人影もまばらな昼下がりの地下鉄のホームで、わたしは壁にもたれて文庫本を読んでいた。土曜の午後、地下街を数時間歩き回って、ほとんど何も買わずに帰ってきたところだった。いつものことだが、気に入った服がなかったのだからしかたがない。当分の間はまたTシャツとジーンズで過ごすことになりそうだが、それならそれで別にかまわなかった。「もっとおしゃれしなさいよ」母親や姉の呆れ顔が目に浮かぶ。  パタパタとせわしない足音が聞こえてきたのは、文庫本を五ページほど読み進めた頃のことだ。顔を上げると、誰かがこっちに向かって駆けてくるのが見えた。白いワンピース姿の、わたしと同じくらいの年恰好の女の子だ。目の前で立ち止まると、わたしの腕にいきなりしがみついてきた。。  髪の短い小柄な女の子だった。息を切らしていた。真っ青な顔をしている。その小作りな顔にはどこか見覚えがあった。だが、とっさには名前が浮かんでこない。 「夏希? 夏希でしょ?」 喘ぎながら女の子が再び言った。今度は聞き取ることができた。彼女が口にしたのはまぎれもなくわたしの名前だった。 「・・・奈々美?」  思い出した。大学の同級生の、佐々木奈々美だ。高校も一緒だったが、特に親しいわけでもなく、学部も違うため、キャンパスで会えば挨拶をする程度の間柄だ。わたしの印象では、奈々美は目立たない、どちらかというとおとなしい少女だった。少なくとも、こんなふうになりふり構わず地下鉄のホームを全力疾走するような子ではなかった。 「どうしたの?」  文庫本をバッグにしまって、わたしは訊いた。 「遠くから、ちょっと見かけたから・・・ひょっとして夏希じゃないかと思って。夏希って、美人だから遠目でもすぐわかるね。ね、少し一緒にいてもいい?」  奈々美は泣き笑いのような表情を浮かべていた。 「別にいいけど・・・でも、なんか体調悪そうだよ?」 「ううん、ぜんぜん平気。ひさしぶりだねー元気だった?」  言葉とは裏腹に奈々美の様子は明らかに変だった。しゃべりながらも、周りをしきりに見回し、いかにも心ここにあらず、といった感じなのだ。まるで、そう、誰かに追われてでもいるかのように・・・。 「喫茶店でも行く? こんな所で立ち話も何だし]  あまり気は進まなかったが、そう水を向けてみた。正直、六月の地下鉄のホームは蒸し風呂のように暑かった。このまま家に帰ってシャワーを浴びたいところだが、奈々美の様子が気になった。すげなくあしらうのをためらわせる切迫感みたいなものが、わたしを見上げる奈々美の目にはみなぎっていた。軽口をたたきながらも、その目は「助けて!」と訴えかけてくるように見える。 「いいの?」  奈々美の顔に喜色が浮かんだ。 「何か用事があるんじゃないの? デートとか」  おそるおそるわたしの表情を窺いながら言った。 「ないない」  わたしは苦笑した。デートなんて疲れること、無類の面倒くさがり屋のわたしがするはずがない。そんなぐらいなら、エアコンの効いた部屋でベッドに寝転がって漫画でも読んでいたほうがどんなにかましなことか。 「彼氏、いないの? 夏希、もてそうだけど」 「いないよ。人付き合い、苦手でさ」 「ふーん、美人なのに、もったいない」  奈々美はいくらかリラックスしてきたようだった。地下鉄でどこかへ移動するのも面倒だったので、駅員にわけを話して改札を通らせてもらって、エスカレーターと階段を上がり、最初に目に付いたこぎれいな店に入った。店内はほどよく空調が効き、生き返った気分になった。窓の外はすっかり夏の陽気で、凶悪なほどぎらぎらした光に満ちている。交差点で信号を待つ人たちが影絵のようにゆらいで見えた。アイスコーヒーを一口すすり、ふかふかの椅子に体をゆだねると、わたしはそのまま眠りの淵にひきこまれそうになった。歩き回って疲れていたし、夕べ遅くまで課題のレポートを書いていて、少し睡眠不足ぎみだったせいだ。そんなわたしを、奈々美の一声が現実に引き戻した。 「夏希になら、話してもいいかな」  うっすらと目を開けると、背の高いアイスティーのグラス越しに奈々美がこちらをじっと見つめていた。 「何かあったの? さっき、なんか変だったよ」  眠気覚ましにアイスコーヒーをもう一口すすってわたしは訊いた。 「うん・・・。ちょっとここのところ、おかしなことが続いてて」  うつむいて、ぼそりと奈々美がつぶやいた。 「おかしなこと?」 「誰かに、あとをつけられてるっていうか、見られてるっていうか」 「だからあんなに走ってたのね」 「地下鉄の改札抜けたあたりから、気配を感じて、それがどんどん強くなってきたから、思わず・・・」 「なにそれ? ストーカー?」  わたしはなんとなく納得した。ストーカーから逃げているところに偶然顔見知りのわたしが目に入ったのだろう。わたしは女にしては背が高いほうだから、人気の少ないホームではひときわ目に付いたに違いない。奈々美としてはストーカーから逃れる隠れ蓑になるなら誰でもよかったのだ。だからたいして親しくもないわたしに声を掛けてきたのだろう。まあ、それは別にいい。が、問題なのは彼女の次の一言だった。 「うちも最初はそう思ったんだけど、でもいくら周りを見てもそれらしい人はだれもいないんだよ。いつもそうなの。気配だけ。気配だけがあとをついてくるみたいな感じで」 奈々美はすっかり元の青ざめた顔に戻っている。 「気のせい、じゃないんだよね?」 「だったらいいんだけどね・・・。とにかく怖くて、最近夜もろくに眠れないんだ」 「いつごろから?」 「先月、お葬式あったの覚えてる?」  奈々美が何か秘密でも打ち明けるかのように、顔を寄せてきてささやいた。 「お葬式?」 「ほら、高校の同級生だった、須藤さんの・・・。須藤麗華って、覚えてない?」  そういえば、と思い出して、とたんにわたしは後ろめたい気分に陥った。一ヶ月ほど前だっただろうか、高校のクラスメートから夜中にメールが来た。通夜と葬式の案内だった。なんとなく面倒で、結局行かずじまいだった。あれがそうだったのか。 「須藤さんって、C組の?」  ぼんやりと面影を思い浮かべながら、わたしは訊いた。二年のときの同級生にたしかそんな名前の子がいた。派手な感じの、ちょっとわたしの苦手とするタイプだったような気がする。目を閉じると、記憶がよみがえってきた。須藤麗華は、コケティッシュというのか、どことなく異性に媚びるようなオーラを全身で発散している女の子だった。長いまつげに縁取られた目がアンバランスなほど大きくて、笑うと唇の端がきゅっとつりあがり、小悪魔的な顔つきになった。そのころから対人関係を避けていたわたしだったが、麗華の周囲には常に男子が群がっていた記憶がある。 「そうそう、夏希とはまた違ったタイプの美人だったよね。夏希はどっちかというとクールでかっこいいけど、麗華は小悪魔的っていうか。意外かもしれないけど、うち、彼女とわりと仲よかったの。学校でのグループは違ってたんだけどね、中学が同じで家も近いし、音楽の趣味とかけっこう合ってたりして。たまに一緒にコンサート行ったこともあるくらい」  わたしがクールな美人かどうかは別として、「小悪魔的」というのは麗華を形容するのに誰もが思いつく修辞のようだった。アイドルというより夜の職業に向いていそうな印象の少女だった気がする。そして、言われてみればその大人びた麗華と、目の前のまだ中学生と言っても十分通りそうなあどけない顔立ちの奈々美が友達同士だったというのは、他人に興味がない性質のわたしにも、かなり意外ではあった。 「わたしそのころ忙しくて、それでお通夜もお葬式も遠慮したんだけど」  嘘だった。ちくりと胸が痛んだ。 「事故だっけ? 交通事故?」 「ある意味そうだけど・・・ひどかったんだよ」  みるみるうちに奈々美の表情がゆがんだ。今にも泣き出しそうな顔でわたしを見つめた。 「・・・どういうこと?」  訊いてから、後悔した。人の死に様を聞いてどうしろというのだ? が、遅かった。奈々美がつらそうに話し出した。 「麗華の家って、坂の下にあるの。うちらの町って、真ん中に向かってくぼんだすり鉢みたいな地形をしてて、麗華の家はそのすり鉢の底にあるの」 「へえ」  わたしは間の抜けたあいづちを打った。アリジゴクの巣のイメージが脳裏に浮かんだ。でも、それとこれといったい何の関係があるのか。 「それで、あの日、麗華は外に出て、自分の家のブロック塀にもたれてケータイで友達と話してた。家の中だと親がうるさいからって」  奈々美が少し黙った。この先を言おうかどうしようか、明らかに迷っているようだった。わたしはぬるくなったアイスコーヒーを一口すすった。はっきりいって、もう帰りたくなってきていた。なぜかはわからないが、奈々美の話をこれ以上聞くのはまずいような気がしたのだ。  そして、その予感は当たった。 「その日、坂の上の家に引っ越してきた一家があって、引越しセンターの大きなトラックがすり鉢の端っこに止まってた。あとで読んだ新聞には、運転手がサイドブレーキを引き忘れてたんじゃないかって書いてあったけど・・・何かの拍子にその無人のトラックがずるずる坂を下り始めた。ケータイに夢中になってる麗華めがけて」  そこまで一息にしゃべると奈々美はうなだれ、また黙り込んだ。細い肩が小刻みに震えていた。 「そんな・・・」  わたしはそれだけ口にするのが精一杯だった。 「その電話の相手って、うちだったんだよ」  奈々美がしゃくりあげながら言った。 「今でもあのときの麗華の悲鳴が耳に残ってる」  背筋を、うなじから腰のあたりにかけて、冷たいものがすっと駆け抜けた。 「麗華がどれだけ苦しんだか、想像すると吐きそうになる。麗華は、ものすごくゆっくり、ブロック塀とトラックにはさまれて、押しつぶされていった。ケータイから、彼女の悲鳴と一緒に、骨の砕けるみたいな音が聞こえ続けてた。うち、怖くなって、ケーターイ投げ捨てて・・・あとは、意識がなくなって、気がついたら病院のベッドに寝かされてた・・・」  吐きそうになったのは、わたしのほうだった。ありえないだろう、と心底思った。ありえない、そんなひどい死に方。かわいそう、を通り越して、怒りがこみ上げてきた。トラックの運転手にでも、奈々美にでもない。強いて言えば、この世を統べるもの、神に、である。どんな悪人にだってそんな死に方をしなければならない義理はない。ましてや麗華は悪人でもなんでもない。それなのに、なぜ。 「それから十日くらい、うち、寝たきりになっちゃって、結局麗華のお通夜にもお葬式にも行けなかった。そのころからなの、あの気配を感じるようになったのは」  気配?   ああ。 わたしは気を取り直した。そうだった。あまりの衝撃に忘れかけていたが、そもそもの話の発端は、奈々美の姿なきストーカーだったのだ。 「・・・あの、奈々美、ひょっとしてあなた、その気配の正体、麗華だと思ってるんじゃないの?」  ふと思いついて、わたしは訊ねた。  少し間をおいてから、こっくりとうなずく奈々美。 「麗華の体・・・ブロック塀にはりついててはがすの大変だったんだって。あの、なんて言ったっけ、残留思念? そんなの、残っててもしかたないと思わない? あんなむごい殺され方をしたら誰だって理不尽で死んでも死に切れないと思う。それに、麗華が最後に聞いてたのうちの声なわけだし」 「それは・・・考えすぎだよ」  うめくようにわたしは言った。しかし、そうは言いながら、心霊現象なんて信じないし、霊感なんてこれっぽっちもないわたしにも、奈々美の言葉は奇妙な説得力を持って胸に迫ってきた。たしかに、もしわたしが同じ目にあったら、化けて出るかもしれない。もちろん、それが可能なら、ではあるが。 「それに、百歩譲ってそれが麗華だとしても、彼女が友達の奈々美に危害を加えるはずがないよ。ただ、懐かしがってついてきてるだけなのかも」 「でも、うちの長電話のせいで麗華はあんなことになったんだよ。うち、恨まれてもしょうがないよ。それにね、麗華って昔から何考えてるかわからないところがあって・・・うちのことも、友達と思ってくれてたかどうか・・・」 「そんなことないって」  もう限界だった。わたしは腰を上げ、テーブルの墨で縮こまっている奈々美を見下ろすような格好で言った。 「ごめん、もう行かなきゃ。ちょっとこのあとはずせない用があって。それとも今もまだ感じてるの? その気配っていうの」 「ううん、夏希と会ってからは消えてるから大丈夫。こっちこそごめんね。変な話につき合わせちゃって。でも、また相談に乗ってくれる? それから・・・駅まで一緒に行っていい?」  明るく振舞おうとする奈々美は痛々しかったが、わたしはわたしで得体の知れぬ憂鬱にとりつかれてしまっていた。いったんふさぎの虫に憑依されるとわたしの場合、相手に不快感しか与えなくなる。とても良い聞き手とは言えなくなるのだ。わたしに友達がいない所以である。 「よかった。夏希に会えて。すっかり話したら気が楽になったよ」  奈々美の弱々しい笑顔にわたしはあいまいな微笑を返した。とにかく、もう家に帰ってシャワーをあびたい一心だった。       
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