1)出逢い

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1)出逢い

九州南部の、海に面した田舎町。 そこは、真正面に青い海と、対岸の山々の景色が望める、穏やかな場所。 梨花(りか)は、高齢者中心の所謂「限界集落」の地域に住んでおり、20歳過ぎに結婚するも、離婚して一人暮らしをしている。 夫と相性が悪く、すれ違いが続いた末に別れの道を選んだのだ。 離婚後は平日は町工場で働く傍ら、高齢者を中心とした住民たちに支えられ、消防団や自治体活動にも参加している。 月に一度の地域の奉仕作業は、高齢者に混ざり梨花も参加する。刈った草を手際よく集める。 「みなさん、お疲れ様です!」 「いやー、梨花ちゃんが参加してくれて助かった」 40歳近くの梨花を、高齢者中心の地域住民は我が子のように慕っていた。 年代は違えど、世代の違う住民から色々教えられ、充実しつつも平穏で楽しい日々を送っていた。 新緑薫る5月。 梅雨入り前の少しカラリとした空気の中、梨花は近所を散歩した。 散歩の途中には、一軒の日本家屋がある。 数年前から所有者無しの空き家になっているが、趣のある家屋で、自治会有志が管理している。 梨花も前々から興味があり、奉仕作業にも参加している。 広々とした庭に、青や紫、白の紫陽花が咲き始めるのか、蕾が着き始めている。 梨花は、庭先に深青の薔薇が咲いているのを見つけた。 青空よりも深みのある、穢れなき青。 水のような香りがする。 「へぇ、青薔薇って珍しいねぇ…」 「こんにちは」 梨花が薔薇に見惚れていると、後ろから黒に近い紫色の浴衣を纏った男性が、少し微笑みながら挨拶してきた。 歳は50前後、といったところだろうか。 田舎町には珍しい、ロマンスグレーの雰囲気のような。 「あっ、こんにちは」 穏やかな声に釣られ、挨拶を返す梨花。 「ええっ!?」 その男性をよく見た瞬間、腰を抜かして驚いた。 まぎれもなく、有名歌手の青生(あお)だったのだ。 青生はAOR(アダルト・オリエンタル・ロック)の第一人者で、唯一無二のシルキーボイスが魅力の人気歌手だ。 歌に集中する為、生涯独身を貫いている。 2ヶ月ほど前に体調を崩し、病気療養の為無期限活動停止を発表していた。 (えっ!何で青生さんがこんなとこにいるの!?) 梨花は青生のファンなので驚き、暫く身体が動かなくなった。 「あっ!えっと…こんにちは!すみません!」 適当に挨拶して、足早に逃げる。 「いや…あの…夢なのかな…こんな田舎町にいるわけない…」 梨花の心臓の鼓動が落ち着くまで、かなり時間がかかった。 翌日、梨花はあの日本家屋が気になり、前を通ると、今日も青生が庭先で落ち着いた様子で佇んでいた。 「やっぱり、夢じゃない…」 梨花はまた驚き、青生を凝視した。 梨花は青生と目が合い、慌てて会釈する。 「こ、こんにちは…」 慌てる梨花に対し、青生は穏やかに微笑みながら挨拶を返す。 「あたしの名前は、梨花といいます…」 緊張しながら名乗る梨花に対し、青生は相変わらず穏やかに微笑む。 それから梨花と青生は、庭先で気候や季節のことを立ち話をする、ということを何度か繰り返した。 梨花は、庭先には紫陽花があり、青生が好きな紫や白の花が毎年綺麗に咲き誇る事を話すと、青生は非常に喜んでいた。 その中で、梨花は青薔薇について尋ねる。 「ここまで青い薔薇は珍しいですね。本当に綺麗」 梨花は水色の薔薇は見た事はあるが、ここまで青い薔薇を見るのは初めてだったので、思った事を素直に口にした。 「ええ、僕の好きな花なんです。療養がてら、一緒に持って来ました」 青薔薇は、青生が元々鉢植え栽培していたものを、引っ越しの際に庭に移植したのだ。 「青生さんに育てられて、薔薇も幸せそう」 「そう言われると嬉しいです。多分、薔薇も梨花さんの言葉を聞いて喜んでますよ」 梨花さんーー 憧れの青生に名前を呼ばれ、梨花の鼓動が再び高まる。 青薔薇は二人の会話を聞きながら、まるで喜びの潤いを放つように咲いていたーー 「梨花さん、明日、夕飯をご一緒しませんか?」 遂に梨花は、青生から自宅に招かれる。 梨花は直ぐに返事し、翌日の夕方、青生が好きな野菜たっぷりの和食を3種類持って行く。 煮しめ、きゅうりとわかめの酢の物、さわらの西京焼。 「美味しい…梨花さん、ありがとう」 美味しそうに食べる青生に、梨花は嬉しい気持ちに、何よりも手料理を青生に食べてもらえた事に、この上ない喜びを感じた。 青生は15年前にライブでこの地に訪れ、散策中に静かな緑の佇まいと海に惹かれ、環境も良いこの地に療養の為引っ越してきた、と話した。 当時からの自治会長の竹原夫妻に案内され、今回も滞在のため挨拶に行くが、忙しいのか中々会えないとも言われた。 確かに現在、竹原の主人・丈太郎は椎間板ヘルニアで入院中で、妻・ゆきも看病につきっきりで留守がちだ。青生が伺っても留守なのは無理はないだろう。 梨花は青生との思い出を大事にしたく、携帯の日記に綴るようになる。 初めて出逢った日もはっきりと覚えていたので、そこから始まる。 ネルドリップで淹れる美味しいコーヒーと共にお喋りしたり、梨花はおかずを持参し、一緒に夕食を共にする日々が続いた。 青生はあまり料理は得意ではないが、美味しいご飯を焚き、味噌汁を作る。 口にした瞬間に身体を包む温もり。この味は絶品だった。 そんなある日のこと、突然、青生に打ち明けられる。 「梨花さん、あなたが、好きになりました。 あなたと一緒に、これからを歩みたいです」 年齢はひと回り以上離れているが、離婚歴があり、ずっとファンで、青生と相思相愛の梨花が断る理由はなかった。 「はい、よろしくお願いします」 二人は唇をそっと重ねる。 「5月27日はあたし達が出逢った記念日だよ」 梨花はそう伝えると、何故か青生は寂しげに微笑んだ。 ある日梨花は、青生の自宅にいるときだけ、なぜか電話が「圏外」になる事に気付く。 このときは一瞬不審に思いながらも、直ぐに忘れ、青生との時間を楽しんでいた。 梨花は青生のところから戻る途中、散歩中の竹原の妻・ゆきに会い、青生が越してきた事を伝えるが、ゆきは怪訝そうな表情をした。 「転入の連絡があると、役場から自治会長の主人に連絡があるけど、そのような形跡はないわねぇ…」 数日後、梨花はネットニュースで衝撃のニュースを知る。 『青生、5月27日に逝去』 5月27日は、青生と初めて出逢った日だったのだーー 記事によると、無期限活動停止の最中、東京の自宅で心臓発作で倒れそのまま絶命、次の日にマネージャーが発見した、とある。 そして偶然、退院し自宅に帰って来た自治会長の丈太郎に会うが、やっぱり最近引っ越してきた人はいないとの事。 梨花は竹原夫妻から改めて青生が引っ越して来た連絡がない事を知り、背筋が凍ると共に、胸が痛む思いもした。 「じゃあ…あの人は…誰!?」
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