あのころのままの夏

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あのころのままの夏

 また、ここに来てしまった。そう思った。  駅まで車を運転したのも、そこから電車に乗ったのも、紛れもなくおれ自身だ。この町のこの駅を選んで降りたのも、もちろんおれ。それでも、なんて思うのはなぜだろう。 「なんだかさ」  あの声が、 「まるで、夏が――」  あの声が、いつもこの時期になると、頭に響いてきて 「――みたいじゃない?」  おれはあの声を、否定したかった。 ◇◆◇12年前◇◆◇    夏休みもそろそろ終わりを迎える8月18日。  10歳だったおれは、とある県の田舎町にある親戚の家に、その日から1週間ほど滞在していた。  母が急に体調を崩して、入院しなければならなくなったのだ。母子家庭で育ったおれは、今までも母に急用ができたときは、近所にあるばあちゃんの家に預けられた。だが運悪くこのときはばあちゃんも体調を崩していて、行き場をなくしたおれはしかたなく、その親戚の家に行くこととなった。  そこは母の妹夫婦の家だということも、母と妹はあまり仲がよくないということも、後で知った。  自分が歓迎されてないことを子供ながらに悟ったおれは、用意してもらった朝食を食べると早々にランドセルに夏休みの宿題を詰め込み、徒歩30分ほどの距離にある町立図書館に閉館まで引きこもっていた。見知らぬ町で友達もいないし、宿題はやらないといけないし、本を読むのも嫌いじゃなかったからちょうどよかったのだ。こっちに来た初日に、あまりの退屈さに町中を探検して、偶然この図書館を見つけられたのは運がよかった。  探検して思ったことは、「なんて人のいない場所なんだろう」ということ。コンビニがないとか民家と民家の間がものすごく離れているとか、それは田舎といえばそんなもの、といった感じでなんとなく認識していたが、人の少なさにはもはや恐怖すら覚えた。なにせ図書館までの片道30分、本当に誰ともすれ違わない。下手をすれば往復しても誰にも会わない日もあった。  たまに散歩中と思われるお年寄りとすれ違ったが、挨拶をしてもギョッとした顔でこちらを見るばかりで返事もしない。今思えば、町に見知らぬ男の子がいて、夏休み中なのにランドセルを背負って歩いてるのを見ればびっくりするのも無理はないが、当時は正直気分が悪かった。  そんなおれが、その1週間で1日だけ、図書館に行かなかった日がある。それが、あの子と会った日だった。  暑さに耐えながら、うつむくようにして歩いているおれの正面から、あの子が歩いてきて。 「……こんにちは」  どうせ返事はないと思いつつも、一応の礼儀として挨拶だけはしたおれに、 「こんにちは」  はじめて返事があった。  12年前。8月23日。蝉の声と日差しが、張り合うようにして降り注いでくる、暑い日だった。  ◆◇◆現在◆◇◆  駅から5分ほど歩くと、図書館がある。昔、ほんの1週間通っただけなのに、妙に思い入れがあった。外装は日焼けして、すっかり黄ばんでいる。心なしか、壁のヒビ割れなんかも増えた気がする。  ここから歩いて15分ほど行った先に、あの叔母の家がある。たしか中学3年生のとき、はじめて図書館から叔母の家までを20分以内で歩ききったんだっけ。そのときは、自分も少しは大きくなったんだななんて思って、1人で笑った。 「さて、と……」  アスファルトすら溶かしてしまいそうな日差しの中、おれは叔母の家を目指した。  ◇◆◇12年前◇◆◇  驚いて、相手の顔をまじまじと見てしまった。これじゃ、挨拶も返さずおれの顔を見ていたお年寄りたちと、やってることが同じじゃないかとあとで気づいた。  そこには、女の子が立っていた。背中まで届く長さの黒い髪。前髪は眉毛の上でぱっつんと切り揃えられている。知らないキャラクターがプリントされた半袖Tシャツに、デニム生地の膝上までのパンツを履いていた。その時はなにも思わなかったけど、今思うと、肌がとても白かった。  間違いなく同年代だとわかると同時に、衝撃とも喜びともつかない不思議な感情が胸に灯った。夏休みも終わるというこの時期に、見知らぬ町で出会った同年代の少女。なんだか、ひとりぼっち仲間を見つけたような、そんな気持ちだった。 「この町の子じゃないでしょ」  それが自分に向けられた声だと理解するのに数秒要した。目の前の少女の、微笑みで少し細くなった眼が、おれを見ている。 「え、あ、うん。その……遊びに来てて」  なぜか、咄嗟にそんなウソをついていた。 「へー、おばあちゃん家があるとか?」 「まあ、そんな感じ……というか、なんでおれがこの町の人じゃないって」  わかったの、と続けようとして、当たり前かと思い直す。お年寄りばかりの町だと思ったのは他でもない、自分自身だ。そこに自分と同年代の知らない子供がいたら、そりゃ町外の人だと思うか。  でも彼女は、 「だって、服がキレイだから」  と、意外なことを言ってきた。 「そんなオシャレな服、この辺じゃ売ってるのも見たことない。都会から来たんでしょ」  オシャレなのか、おれ……?自分が洒落ているかどうかなんて気にしたこともなかったが、改めて少女の服を見て、言っている意味がわかった気がした。よく見ると少女の着ているTシャツは首元が少しよれているし、デニムのパンツの色褪せ方も、数えきれないほど洗ったからこそのものだとわかるようなものだった。  おれがなにも答えられずにいると、うつむき加減でいるおれを下から覗き込むようにしながら、少女は尋ねた。 「ねえ、どこか行くの?」 「図書館に。宿題やらないといけないから」 「図書館?!」  少女が急に大きな声を出したので、おれの方が驚いてしまう。なおも大きな声で、 「私ですら行ったことないよ、あんなとこ。しかも宿題やりにって、マジメだなあ」  そう言ってケラケラと愉快そうに笑い始めた。  ちょっと、ムッとした。おれだって別に行きたくて行ってるわけじゃない。宿題だって、やりたくてやってるわけじゃない。こんな田舎の、初対面の女の子に、おれが親戚の家に居続ける気まずさがわかるわけない、と妙な反発精神が生まれた。 「まあ、この町、くらいしか行く場所も見る場所もないからね」  だから、精一杯の嫌味をこめて言ってやった。 「それにおれ、夏って嫌いなんだ。暑くて汗かくし、急に土砂降りになってムカつくし、虫も出るし。クーラーが効いてて雨やどりできて虫もいないんだから、図書館、最高だよ」  どうせもう2度と会うこともないだろう相手だから、と言葉を選ばずにわざと嫌な言い方をしてやった。はずだった。なのに少女は、おれの言葉をポカンとした表情で聞いたあと、「何言ってんの、キミ」とあっさり言い放った。  その時の彼女の顔が、強がりとか、嫌味を言い返そうとしたとかじゃなく、本当に言葉どおり、おれがなにを言っているのかわからないという疑問を表しているのがわかったから、おれは戸惑った。 「着いてきて」  言うやいなや、彼女はおれに背中を向け、走り出した。あっけに取られて立ち尽くすおれを振り返ると「いいから!」と大きく手招きをし、また走り出す。着いていく必要なんかないはずなのに、おれは走って彼女を追いかけた。  ◆◇◆現在◆◇◆  叔母の家にたどり着いた。図書館と同じく、こちらもだいぶくたびれた雰囲気が見て取れた。おれは家に背を向け、歩き出す。別にこの家に用があるわけではない。正直、まだ叔母夫婦がここに住んでいるのかにすら興味がなかった。  おれはここから、ただ図書館までの距離を往復するだけ。それがおれにとって、あの12年前の夏から、毎年8月23日に行う恒例行事になっていた。  あの子にもう一度会いたい。だけじゃない。おれはあの子に会って、あの言葉を否定したかった。 「――みたいじゃない?」  あの声を、否定したかった。  あれから毎年8月23日には、片道数時間かけてこの地へ来た。そして、叔母の家の前から図書館まで、あの子と出会ったこの道を何往復かする。あの子にはまだ1度も会えていないから、いつもそのまま帰る。滞在時間はほんの1時間程度だ。  8月23日以外にここに来たことは、ない。あの子に会えた日付。この日付に会えないのなら、他のどの日に来てもぜったいに会えないような、そんな確信めいたものがあった。 「……あっつ」  もはやなんの感慨もなくなってしまったこの道を、おれは歩く。  22歳。大学4年生のおれにとって、これが人生的にも最後の夏休みだろう。社会人になったら、きっと思うように休みなんて取れなくなる。夏の終わりと、夏休みの終わりが、同時におれを襲ってきているような、そんな感覚だった。  ◇◆◇12年前◇◆◇  少女は、足がやたらと速かった。おれはランドセルを背負っているというハンデがあるものの、それを差し引いてもものすごい速さで、何度見失いそうになったことか。そうなるたびに彼女は足を止め、大きな手招きをして案内をしてくれた。  田んぼの畦道、草が腰丈まで伸びてる土手、舗装もされていない砂利道……少女に先導されるのはそんな道なき道ばかりだった。  立ってるだけでも暑いのに、その上走り回ったせいで身体中が汗でびしゃびしゃだ。草むらの中を通るたびに、案の定キモい虫がたくさんいて何度も悲鳴をあげそうになった。これだから、夏なんて。  もうそろそろ勘弁してほしい。だいたいなんでおれ走ってるんだっけ?  やっとその疑問が浮かんできたころ、ひょいひょいと軽快に土手を登り切った彼女が、おれを見下ろしながら「ほら! 見て!」と叫んだ。  けっこうな急斜面の土手を這うようにしながら登り切って、少女の横に立つ。彼女が指差す方向を見た瞬間、  ゴオっと、全身を打つような風が通りすぎた。  今までかいてきた汗を全部いっぺんに吹き飛ばしてくれるような、おれの身体の中まで貫通しているかのような。  風をうけて、素直に気持ちいいと思ったのは、きっとこの日がはじめてだ。  そして彼女の指差す先には、川があった。日差しを受けてキラキラと反射していて、中に宝石でも散りばめてあるんじゃないかって、本気で思った。  川の流れるサラサラという音が、耳に心地いい。日差しの強さも、うるさいセミの声も、さっきまでと何一つ変わっていないはずなのに、この川の音を聞きながら風を浴びているだけで、いつまでもここにいられると思うほど、本当に涼しかった。 「すげえ……」  思わず口から出たのは、そんな幼稚な感想だった。 「ここは風の通りがいいんだって! 地形のおかげなのかな、私もよくは知らないけど」  言いながら、彼女はぺたっと地べたに腰をおろし、脚を投げ出して大きく背伸びをした。  彼女の黒髪が、風にのってサラサラと流れていく。目の前の川の流れと、それはよく似ていた。  おれもマネして、その横に腰をおろした。きっと親に見られたら、服が汚れるからと嫌な顔をされるだろうなと思ったけど、今はそんなこと気にしなくていい気がした。 「私もさあ、あんまり夏って好きじゃなかったんだよ」  少女がおもむろに話し出す。 「汗かくし土砂降りになるし虫がいるし……でも何年か前にここに来たとき、ああー、私は今までこうゆう景色を見なかったから夏が嫌いだなんて勘違いしてたんだなって思い直した。私が夏を好きになろうとしてなかっただけなんだなって」  おれが夏を嫌いだと言ったあの時、だから彼女はポカンとしていたのか。夏の良さも知らないで、何言ってるの、キミ、と。 「知ってる? 夏ってさ、あと80回くらいしか来ないんだよ」 「え? そんなわけないじゃん、これからだって夏は毎年必ず……」 「じゃなくて! 私たちが体験できるのはあとそれくらいってこと。90歳まで生きるとしたってあと80回も夏に会えないんだよ」  夏に会うという表現は、初めて聞いたけれど、いいなと素直に思った。そして、そんな考え方をしたことは今まで一度もなかった。 「ここで風を浴びて、涼しいって思えるのは、暑いからこそなんだよ。あの川があんなにキラキラしてるのも、日差しが強いおかげなんだ。私たち、この景色、あと80回しか見られないんだよ」  ふと、彼女の横顔を見る。口元には微笑みを浮かべているけど、その目は、どこか寂しそうで。それなのに、川を映したその目は、本当に川と同じくらい、キラキラしていた。それこそ、中に宝石でも入っているんじゃないかと思うくらいに。  でも。 「でも、さ。おれやっぱり暑いのは嫌いだよ。虫も苦手だし……いいことばっかりじゃないよ。ニュースでも、毎年平均気温が上がってるって言ってるし、これ以上暑くなったら、もっと嫌になりそうだよ」  本当は、彼女の言葉に頷きたかったのに。この景色を見せてくれて嬉しかったって、言いたかったのに。口をついたのは、そんな言葉だった。  ここであっさりと夏っていいなって思ってしまった自分が、なんだかすごくかっこ悪く思えて、わざと反発するようなことを言ってしまった。  すると彼女は、こちらを見て、ふわっと微笑んだ。そのときの彼女が、本当はどんな感情だったのかはわからない。でも、そのとき彼女は、笑顔であの言葉を言ったのだ。 「なんだかさ。まるで、夏が自分から、嫌われようとしているみたいじゃない?」 「……え?」 「キミの言うとおり、毎年どんどん暑くなってきて。夏は嫌だねなんて言う人、いっぱいいる。ニュースでも『危険な暑さだから外に出ないように』なんて言われちゃって。外に出ないと夏のよさはわからないのに、夏自身が外に出られないようにしてるんだ。変だよね」  よいしょっと、と彼女は立ち上がり、お尻についた汚れを軽く手ではたき落とした。 「だから思うんだ。夏って、自分から嫌われようとしてるのかも。だったらもう、仕方ないよね」  笑顔のままの彼女と、なにも言えずにいるおれ。  その間を、一際強い風が、ゴオオっと通りすぎた。  ◆◇◆現在◆◇◆  その後、少女とどう過ごしたか、どうやって別れたか、あまりよく覚えていない。  母親が退院して、おれを迎えに来るまでの数日を、おれはやっぱり図書館に通ってすごした。その間、少女に会うことはなかった。  名前も歳も、なにも知らない。あの子がおれのことを覚えているかすらわからない。でもおれはあの年から、毎年8月23日には、必ずこの町を訪れようと決めた。  彼女に会って、あの言葉を否定したかった。  夏が自分から嫌われようとしている、なんてことはない。  おれが素直になれないだけだった。おれが、夏を好きになれそうだって、認めることができなかっただけなんだ。  たしかに毎年、暑さは増している。外に出ることすら苦痛に感じることもある。  それでもどんなに暑くなっても、あの川の輝きも、あの風の涼しさも、きっとなにも変わっていないはずだから。夏が終わったらあの景色は、もうぜったいに見られないから。  夏は嫌われようとなんてしていない。  夏はずっと、夏のままだ。あのころのまま。  図書館から折り返して、再び叔母の家の前まで来てしまった。  ……もう一周だけしたら、今年も帰ろう。  叔母の家に背を向け、歩き出す。背中は汗でびっしょりで、アゴからしたたった汗が何度となくアスファルトを濡らした。かんかん照りの太陽が、その汗を一瞬で蒸発させていく。  手の甲までベタついて、ポケットからハンカチを取り出すのにさえ苦労した。額の汗を乱暴にぬぐって、首元の汗を拭くためにぐいっとアゴをあげたそのとき。 「こんにちは」  目の前に、女性が立っていた。  驚いて、相手の顔をまじまじと見てしまった。  背中まで届く長さの黒い髪。前髪は、さすがにぱっつんとまではいかないが、きれいに切りそろえられている。黒い薄手のワンピースに、白いハイヒールを履いていた。そして、肌がとても、白かった。 「……こんにちは」  挨拶をかえしながら、ああ、と。情けないため息がこぼれそうなのをやっとの思いで耐えた。  12年前のあの日と、なにもかも違うはずなのに。  なぜか最初に出てきたのは、「あの頃のままだ」という気持ちだった。  彼女はキョトンとした顔でこちらを見ている。 「えっと……大丈夫ですか?」  心配されてしまった。おれは慌てて、なにか言わなくちゃと考えを巡らせた。いろいろ考えていたはずなのに、もし会えたらこう言おうと何度もシミュレーションしたはずなのに、そんなもの一つも役に立たなかった。 「その、ええと……暑すぎて」  だから、自分でも驚いた。 「どこか、涼しい場所知りませんか? きれいな川があって、風通しのいいところなんかあれば、嬉しいんですけど」  まさか、こんな言葉が出てくるだなんて。もっと驚いたのは、おれの言葉を聞いたときの彼女の表情だった。  キュッと口元を結んで、小さく目を見開いた彼女は、そのあと、ふわっと微笑んでくれたのだ。 「そっかあ……すごくいいところ知ってるんだけど、この格好でいけるかな」  スカートの裾を摘み上げた彼女と目が合った瞬間、思った。  22歳の8月23日。夏休みの終わり。夏の終わり。  彼女をやっと、否定できる。  
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