2/2
前へ
/2ページ
次へ
翌朝、あたしは学校帰りに再び公園を通りかかった。昨日のことが頭から離れない。母は本当に眠っていたのだろうか。実は起きていて話を聞いていたのではないだろうか。 そうだとしたら、母はどう思ったのだろう。あたしには、母を責めるつもりなんてまったくなかった。ただ、少しでいいから振り向いて欲しかった。自分に関心を持って欲しかった。   ふと、昨日の蝉のことを思い出した。今日は鳴いていないから、もう他の場所にいってしまったのだろうか。この前、姿を見かけた子供用の遊具がある場所に向かう。以前と同じように、そのエリアには多くの家族連れがいた。砂場がある近くのケヤキの木、たしかあそこにいたはずだ。   砂場の近くまで来たとき、あたしは言葉を失った。木から、数メートル離れた場所に一つのアブラゼミの死骸が仰向けに転がっていた。その横では、子供達がこの前と同じように走り回っている。次の瞬間、ぐしゃっと多少離れていたはずなのに、なぜか鮮明に聞こえた。 「うわー、踏んじゃった」   5歳くらいだろうか。小さな男の子が、靴の裏を確認して顔をしかめていた。その子は、靴裏を地面に数回擦り付けると、何事もなかったような顔をして走り去っていく。後には、茶色い2つの羽根だけが残された。 しばらく、呼吸することも忘れてその場に立ち尽くす。目の前の光景が、信じられなかった。よくあること、何でもないことのはずなのにそれが妙に残酷で無慈悲に感じられた。ただ、何かを期待して待つことしか出来ない者には死ぬこと以外に選択肢はない。そのことを見せつけられたように感じた。 「生き残らないと」 自分に言い聞かせるように呟いた後、あたしは大きく息を吸い込んだ。  家に帰り、リュックに片っ端から自分の部屋にあるものを詰め込んでいく。作業をしていても、先ほどの出来事が頭の中で何度もよみがえる。あたしもあの蝉のように誰からも相手にされないまま、死んだらゴミのように扱われるのだろうか。 母に振り向いて欲しいとただ待っていても何も変わらない。今と同じで、居場所なんか何処にもない。荷物が出来上がると、それを持って母親の部屋に向かった。声はかけずに、襖をあけ放つ。   母はいつもと変わらず、死んだようにこちらに背を向けて眠っていた。その背中に向かって投げつけるように言う。   「悪いけど、今日からお父さんの家に行く」  母の肩がピクリと動いた。声が震えそうになるけど、何とか堪える。 「もう一生帰ってこないつもりだけど、それでもいい?」  母が息を吸い込む音が聞こえた。何か言ってくれると思った。しかし、数秒待っても返答はなかった。 目頭が急に熱くなり、目の前がぼやけたと思ったら冷たい何かが頬を伝って落ちていった。何となく分かっていたはずなのに、期待してしまった。怒りと悲しみが入り混じった思いでそっと襖を閉める。   玄関の戸を開けて、外に出るとすっかり夜になっていた。目の前の青白い街灯が、そっと夜道を照らしている。あたしは歩き出した。
/2ページ

最初のコメントを投稿しよう!

3人が本棚に入れています
本棚に追加