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優しい世界なんて存在しない。夏が終わるころ、公園で蝉の声を聴きながら、あたしはそう思った。
一年前、両親が離婚してはあたしは母に引き取られた。それ以降、母は昼間から部屋に閉じこもるようになった。掛け持ちしていたパートの仕事もすべてやめて、毎日、自室で布団にくるまっている。あたしには、見向きもしない。しかし、今日は朝から珍しく起きてきて、あたしに言った。アイス買ってきてって。
久しぶりに母と言葉を交わした。
そのアイスを買って帰る道中、あたしは通りがかった公園で一匹の蝉を見つけた。もう、夏も終わりに近づいていたから、珍しいなと思って足を止めた。蝉はアブラゼミだった。
鳴いているから、たぶん雄だろう。近くに他の蝉がいる気配はなかった。そのアブラゼミを見ていると、何だか切ない気持ちになった。どんなに鳴いても誰も気にしてくれない。誰も関心を持ってくれない。ひとりぼっち。あたしと同じ。
公園の近くの遊具では、小さい子供たちが、楽しそうに遊んでいる。皆、親たちの優しさに包まれて心の底から幸せそうだった。きっと、彼らは知らないまま、気付かないまま生きていくのだろう。この世界の誰からも必要とされないあたし達のような者がいることを。
そんなことを考えていたら、何だか心の奥に黒い感情が広がっていって胸が締め付けられるように苦しくなった。ふとアブラゼミに視線を戻す。そいつはもう諦めたように鳴くのをやめてじっと木に止まっていた。あたしは、そいつにじゃあねと一声かけて、公園をあとにした。
家に帰って、母親の自室の襖に向かって声をかける。相変わらず、返事はなかった。襖を開けると、むわっとした悪臭で鼻の奥が焼けるように痛くなる。母の自室の床には食べかけのカップ麺やたばこの吸い殻、衣服などが散乱していた。
「ただいま、アイス買ってきたよ。」
反応はなく、母は布団にくるまって背を向けていた。床のわずかなすき間を移動して、枕元に買ってきたカップアイスを置いた。その時、公園で見た子供たちの横で鳴いていたアブラゼミのことを思い出した。その寂しそうな鳴き声が頭の中で何度も繰り返し再生される。
「あのね、お母さん」
気が付くと母の背中に向かって話しかけていた。
「今日ね、公園で蝉を見つけたんだよ。この時期なのに珍しいよね。その子ね、まるで誰かに助けを求めるように鳴いてた。たぶん、交尾の相手が見つからなかったんだと思う。でも、悲しいよね。皆、そんなことなんて気にしてなくて…‥」
そこまで話してはっと我に返る。なぜ、自分はこんなことを話しているのだろう。公園で見たあのアブラゼミと自分が何だか似ていたからだろうか。
母を見たが、相変わらずこちらには背を向けたままで、微動だにしない。あたしは、部屋を逃げるように出た。
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