魅了

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 最初は一階であたしの父親とかとお喋りをしていたはずのユウくんは、やがてあたしのいる部屋の戸をノックしてきて、引き戸の隙間から捨て猫みたいな顔をのぞかせてきた。どうせ下に居づらくなったんだろうな……と部屋に招き入れると、ユウくんは「おまえの父ちゃんが、亜未の勉強見てやってくれって。おれみたいなFラン大学生にそんなことできるわけねえのにな」と、畳の上で本当に猫みたくゴロゴロとしはじめた。ユウくんは高校卒業後に地元の工業大学へ進んだらしく、あたしよりもはるかに長い夏休みを持て余しているのだという。  中学の頃のユウくんは、完全なる陰キャラではないにせよ、社交的というわけでもなかった。仲良くなった人とはなんでも話せるけれど、自分から交友関係を広げるタイプではなさそうにあたしからは見えていたし、ユウくんの親であるおじさんもそのように言っていて、ユウくんはなんともバツの悪そうな顔をしていた。  でも、今のユウくんの姿を見る限り、今はきっとそんなこともないんだろう。あたしのことを「亜未ちゃん」と呼んでいたはずのユウくんが「亜未」と呼び捨てにしていたことからも、なんとなくそれがうかがえる気がした。 「へえ。亜未も受験生になったんだなあ」  あたしの持ってきた参考書をまるで漫画のようにパラパラめくりながら、ユウくんはどこかしみじみとした様子で呟いていた。初めの頃は完全に無視して宿題を進めていたのだけど、あんまりにもぶつぶつとユウくんが話しかけてくるものだから、あたしは途中からただシャープペンシルを握って英語のプリントを睨むだけで、頭の中で問題を解くことは放棄していた。あたしだって本当はユウくんとお喋りしていたいし、そもそも休みだからってドヤ顔でこんなに宿題出してくる学校の良識を疑うよ。休ませろ。 「ところで亜未、今はなんの勉強してるんだよ」 「してない。ユウくんがずーっと話しかけてくるから『できない』の」  できない、に強く強くアクセントを込めながら言い返して振り返ってみたら、いつの間にかユウくんは立ち上がって、あたしのすぐそばまで近づいてきていた。あたしの後ろから、どれどれ、とユウくんがテーブルに手をついたとき、水の中みたいな香水のにおいが鼻先を流れていった。それを合図に、胸の奥が俄にざわめきはじめる。  あたしの胸中をよそに、ユウくんは「どれがわからないんだ」と訊ねてきた。 「教えてくれるの」 「ま、一応は『教えましたよ』って実績がないとさ。おまえの父ちゃんからおれの親父に告げ口されたら嫌だし」  なんだよ純粋なる親切心じゃねーのかよ……と心の中で毒づきながら、あたしはさっきから分からなくて飛ばしていた問題のひとつを指差した。文系のくせに英語が苦手なあたしは、ずっと他の教科の宿題を進めていて、英語だけをほったらかしにしていたのだ。 「はーん、長文読解ですか、そうですか」 「わかる?」 「わかんないと自分が困るからな。下手したら、文系より理系の方が英語使う機会多いんじゃね? 知らんけど」 「いや知らんのかい」  ちょっとだけよそよそしさが残っていたはずが、あたしは昔みたいにユウくんの脇腹辺りにツッコミを入れてやった。痛えな、とユウくんは腹を抱えてみせたけれど、痛いはずがない。触れたユウくんのお腹は昔と違ってがっしりとかたくなっていたし。 「ま、落ち着いて整理しよう。この設問で訊かれてるのは――」  そこから自然と始まったユウくんの教え方は、あたしのレベルを把握してそれに合わせた言い回しをしてくれたから、学校の教師の解説より数倍わかりやすかった。以前にユウくんと会ったとき、あたしたちはユウくんの持ってきたテレビゲームばっかりして遊んでいた気がする。自分はともかくとして、ユウくんはあたしよりもとっくに早く大人になっていたんだなあと思うと、羨望にも焦燥にも似た感情があたしを駆り立ててくる。  口では適当な調子で言いながらも、結局ユウくんは、あたしが英語の宿題をすべて終わらせるまで勉強に付き合ってくれた。ペンの先で指し示しながら英文を音読するユウくんの横顔はすっかり大人の男性で、見とれてしまっていたあたしは何度も「ごめん、どこだっけそれ」と訊き、ユウくんを苦笑いさせてしまった。
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