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「じ、神宮寺さん? 酔ってますか?」
「少し飲んだけど、全然酔えてない。大丈夫よ。ちゃんと正気だったから」
その意味について尋ねた方がいいのだろうか。晴樹は一歩、後ずさって距離を置こうとしたが、浴衣の彼女の足元が覚束ないのを見て、肩を貸す形でその場に留まる。
「私はね、本当は夏担当じゃなかったの」
「そこ、座って下さい」
事務椅子を持ってきて、それに彼女を座らせる。神宮寺はありがとうも言わず、そのよく分からない話の続きを始めた。
「本当は冬を担当する予定だった。でも、無理を言って上司に変えてもらったの。しばらく本庁から離れたかったから」
晴樹は給湯室に向かい、水を入れる。あまり昔の話はしない人だった。特に私生活についてはうまくはぐらかしてしまう。人に好かれるようでいて、仕事以外の付き合いの話を聞かない。そういう人でもあった。だから、今話そうとしていることが彼女にとってあまり外に持ち出したくない類の話なことは想像できた。
「はい。飲んで下さい。少し、楽になりますよ」
「酔ってないけど、ありがとう」
コップを受け取ると、その水は一気に彼女の口へと注がれた。喉が鳴り、口の端をいくつか水が流れていく。コップに間接照明が反射して、一瞬だけ彼女の顔が映ったが、泣いているようにも見えた。
「仕事はそれなりに充実してたから、それは理由じゃないわ。そこにね、三年先輩の同じ大学の人がいたの。学生時代、好きだった人だけど、既婚者よ。だから、何もないんだけど、何もなかったんだけど、その人が夏担当だった。彼は夏が本当に好きでね、こんな世界になってもサーフィンを趣味って言い張って、部屋にはいくつもサーフボードが飾られてる。いつか外の世界の本物の海でサーフィンをするっていうのが彼の夢で、その人、シェルターAの大手企業から引き抜きの話があったのを受けたの。それでね、一緒に来ないかって。どういう意味だと思う?」
「僕にはよく分かりません」
「数年は単身赴任になるから世話をしてくれる愛人が欲しかったのよ。でもね、誘われた瞬間、私は喜んじゃったわ。だって憧れの人だったから。けど同時に悲しくもあった。そんな人だとは思ってなかったから。それでね、私は彼が抜けた空いた夏担当になって、ここにやってきたの。もう、その期間も今日で終わりだけど」
はい、とも、うん、とも、つかない返答をもごもごと返しながら、晴樹は心の中にすうっと流れる冷たい雫を感じていた。
「夏ってさ、人を少し開放的な気分にする力があるのよね。暑くて薄着になる、って意味じゃないわよ。ちょっと警戒心が緩むんだと思う。本質的に人間てさ、楽しみたいから。一度くらいなら、過ちもいいかなって思っちゃうのよ。そういう人間の弱さが露出するのも、この夏だと思う。ねえ、晴樹君。君にはそういうの、ないの?」
晴樹、君――その呼び方の甘ったるさは毒だった。まるで媚薬のように晴樹の心を蝕む。
「神宮寺さん。やっぱり酔っ払ってますよ」
「そうやって冷静な振りをしててもちゃんとドキドキしてる。もし今ここで私担当になって欲しいって言ったら、どうする?」
「仮定の話はやめて下さい。それはさすがにズルいと思います」
「じゃあ、本音で聞くわ。どう? 私じゃ、いけないかな?」
たぶんここで頷ける、状況を受け入れられる男性だったら、晴樹は同級生たちからバカにされたりはしなかっただろう。でも、ここで受け入れて生温い幸せを手に入れた先にもやはり終わりがあることが分かっていたから、お互いを無駄に傷つけて終わる未来が待っていることを知っていたから、彼は違う選択をした。
「夏仕舞い、神宮寺さんも手伝いませんか?」
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