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何にせよ、一先ず席を立とう。
そんな美香の動きを、突如として放たれた男の言葉が止めた。
「あなたは、夏の終わりに音に悩まされている」
「……え?」
「違いますか?」
男は陰りの無い、まっすぐな口調で告げる。
(どうして、この男はそのことを知っている?)
音のことを、別に美香は誰にも話していないというわけでは無かった。家族はもちろん知っていたし、友人といる時にその症状が現れれば説明をしなければいけなかった。
だけれども、初対面のはずの男がなぜそのことを知っていたのだろう。
確かに、今、音の症状に見舞われた彼女には数分の静止があった。だけれども美香はいつも音がするときは周囲にそれを悟られないように落ち着いた雰囲気を保つように心がけていた。勘の鋭い人ならば、例えば貧血なのかとか、頭痛がしているのかと心配をするかもしれない。
だけれども、彼は言った。
『音に悩まされている』と。
音は、美香にしか聞こえるはずがないのに。
「どうして、分かるんですか?」
「説明をするのは少し難しいんですが、でも僕ならば眠らせることができる」
(眠らせる、こと?)
改めて、机上の名刺に視線を落とした。
入眠導入師。
聞いたことのない職業だった。セラピストのようなものだろうか?
大学の講義では心理学を専攻していたから、それに関係する仕事については多少の知識はあるつもりだったが、それは聞いたことがない。
あるいは、催眠術師のようなものなのかもしれない。
確かに就寝前にこの音が鳴り響き、眠るのに困ることは確かにあった。
もしこの音が解消されるならば、いや、解消されなくてもその原因がわかるだけでも美香にとっては大きな前進であった。
胡散臭さが拭えたわけでは無い。
だけれども、少しこの男の話を聞いてみようかと思った。
二人で店を出て、少し歩いたところで早速、美香は後悔することになる。
男――笠は私の家を訪れたい、と言った。
家の方向に向かって歩き出してはいいが、美香の足取りは重かった。
前を歩く笠の足取りは軽快。
最近は詐欺の形態もかなり複雑化してきていると聞く。
やはり得体の知れない笠という男への疑念は払拭できていない。
「あの……」
「どうしましたか?」
「お金って、どのくらかかりますか? 今、あまり財布の中に入っていないんですけど」
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