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塾を出て、すっかり闇に包まれた空の下を歩く。
言い知れない不気味さを抱きながら足を進める最中、ジャリ、とアスファルトを削ってしまうほどに、一歩後退った。立ち止まったのは、それだけの恐怖を感じたからだった。
数メートル先に、女の子がいた。ガードレールに手を掛けて、向こうの方に広がる海を見ているみたいだった。暗くて、たぶん、どこが海でどこが空かの区別はついていないと思うけれど。
不思議な空気を纏っていて、なぜか目が離せなくて、でもなんだか不気味に思えて、意を決して一歩目を踏み出そうとした。でも、それは叶わなかった。彼女が不意に振り向いて、しっかり目が合ってしまったから。どうにか無かったことに出来ないかと考えたけれど、でも、やっぱりそれも叶わなかった。
「こんばんは」
「……こ、んばんは」
「ねぇ、ここってどこ?」
彼女の声は透き通っていて、まるでラムネ瓶の中に入っているビー玉みたいに綺麗だった。白い肌に黒い髪が映えている。その美しさのせいで、彼女の言葉だけ際立って浮いていた。
このあたりの住所を伝えると、彼女は納得したんだかしていないんだか分からない声色で、ひとつお礼を口にした。
「もしかして、宿泊しているホテルの場所が分からなくて困ってる、とかですか?」
「ううん。わたし、母の実家に泊まってるの。夏の間だけね」
「へぇ。じゃあ、ここには帰省で?」
「たぶん……あれ、そういえばなんでだろう?」
“掴みどころのない”という言葉は彼女のためにあるのだとすら思うほど、すべてがふわふわと宙に浮かんでいるようだった。彼女がきちんと地面に足をつけて立っていることを疑ってしまうほどに、浮世離れしていた。
彼女はそのまま、やっぱり美しい笑みを浮かべた。
「わたし、白川美空って言うの」
「……黒井真凛、です」
「まりんちゃん」
彼女──美空ちゃんは私の名前を一度呟いて、真っ白なフレアスカートのポケットから小さな手帳とペンを取り出し、たぶん、私の名前と、それから何かを書き始めた。私はただ、彼女の白く細い指が滑らかに動く様を、黙って見守ることしか出来なかった。不安と、羨望と、一種の恐怖みたいなものを抱きながら。
「真凛ちゃん」
「! はい?」
「あのね、わたし、海を見てみたいの」
「……行ったことないんですか?」
「うん……ないの。一度も」
美空ちゃんは悲しげに視線を落として、それから顔を上げ、真っ直ぐ手を伸ばし指をさした。その先にあるのは真っ暗な闇。彼女がずっと見つめていた海だった。
「わたし、明日の午前十一時。あの海に行こうと思う」
「……」
「真凛ちゃん」
「……はい」
「わたしにも、海、見れるかな?」
彼女の声は夜の海のように凪いでいて。
ふわりと、香るはずのない潮の匂いが鼻を掠めた気がした。
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